HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

諦める

最近、あまりものを考えなくなった。

一時、やっきになってブログを書いていた頃は、ウェブを使ってどれくらい思考力を伸長できるか、自分の限界に挑戦した。ブログをはじめて本箱2さお分くらいは読んだが、なにも変わらない。ブログも前のとあわすと2500日分くらいは書いたろう。だが、私のブログは私も変えなかったし、ほかのなにものをも変えなかった。せいぜい、自分の読む力のなさ、ものを考える力のなさがよくわかっただけだ。

ずっとずっと忙しかった。学校を出てからひたすら働き続けた20年もの歳月もなにも変えなかった。この20年の間、たぶん普通の人が見ているであろうテレビ番組など見たことがない。新聞もろくすっぽ読んだことはない。余裕をもった生活など無縁だった。

学校でおそわったような意味で進歩すること、苦労して苦労して生きるか死ぬかの段階まで戦って成果をだすこと、人からよい子とおもわれるように行儀よくすること、そんなことを諦めてしまえば夕食を家で食べて好きな音楽を聞いたり弾いたりして、スポーツクラブで汗をながす生活があるのだと知った。


諦めると口で入っても、怒りや恨みというのはなかなか諦められないものだ。怒りや恨みは人の歩みをそこで止めてしまう。一歩も進めなくしてしまう。非常にやっかいなものだ。理性で、怒りや恨みを諦めたと思っていても、深層意識のまた底では脈々とネガティブなエネルギーを溜め込んでしまうのを感じる。

ここを諦められたらずっと安穏に生きられるのだろうね。