「人生は私にはとても重いのに、あなたにはごく軽いのね。私、その軽さに耐えられないの」
このセリフが、テレザの言葉か、サビナの言葉か、思い出せないくらい昔読んだきりだ。もちろん、「あなた」とはトマーシュのことだ。

存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)
- 作者: ミラン・クンデラ,西永良成
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/02/09
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おや、いつのまにか新訳が出ている。今度読み直してみよう。
永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐え難い責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰の思想をもっと も重い荷物 (das schwerste Gewicht)と呼んだ理由である。
http://spiral_inspiration.at.infoseek.co.jp/sonzai.html
もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである。
ここで存在の重さ、軽さとは、永劫回帰する時間の中で生きているか、どうかという意味だ。私は自分がきっと「軽い」のだと信じていた。そして、そのように行動してきた。しかし、いま気付くと自分の存在は、代ゆずりという永劫回帰の中で「重く」生きていることを発見する。対して、トマーシュが自分の生を一度きりとしか見ないのならば、存在は耐え難く軽いということになる。
地域で生きると言う覚悟とは、「俺はこんなもんだ」というよい意味での諦念をもつことだ。結局、いまの世の中はマズローの欲求の5段階説の最高位、自己実現の呪縛に囚われている気がしてならない。自己実現できない人生とは人生をディスカウントしているという脅迫概念に、どこかゆがんだ意味で、つながってしまう。自己実現できていない人生は、どこかもの足りないものだと考えられがちだ。ほんとうは、「俺の人生こんなもんだ」と開き直ることこそが自己実現だと私は思っている。
そして、それはトマーシュの到達したテレザとともに生きるという生き方だと信じる。
ほんとうは、存在とは充分に重い。ただ、自分の生きる意味をみな見失っているだけだ。若き日のトマーシュのように。
支離滅裂だが、眠いのでこれでアップしておく。