HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

妻は豚か?それとも、女神か?

どこまでもよいだけの話というのはない。漱石の美しいアニマ(参照)にも裏面があった。吉田敦彦先生の「夢十夜」の分析は切れすぎるくらいに切れる。

 女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁の天辺へ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗いて見ると、切岸は見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐められますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だった。けれども命には易(か)えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹(びんろうじゅ)の洋杖で、豚の鼻頭を打った。豚はぐうと云いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一と息接(いきつ)いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦りつけに来た。

夢十夜 - 暇つぶし青空文庫

漱石の夢の女」の吉田先生によればパナマ帽をかぶった庄太郎は漱石自身であるという。庄太郎が気に入った女は漱石が想いをよせた女であり、内面的にいえばアニマである。女と一緒になるとは、底が見えないほどの断崖絶壁から飛び降りるということだ*1。そして、耐えがたいことに豚とはパートナーのことであるという。断崖絶壁から飛び降りれないとは日常に取り込まれることであり、豚のような自分のパートナーと無限に応対しなければならない。豚は落としても落としても、あとからあとから出てくる。限りがない。ぐんにゃりしてしまった庄太郎はしまいには病気になってしまう。

漱石の夢の女

漱石の夢の女

 健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善(よ)くないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
 庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。

草枕」の画家のように女をチラ見して内面にアニマを持っても、その先にはリアルで危険な現実が待っている。ことほど左様にパートナーとは現実そのものであり、内面のアニマ/アニムスとは現実からの逃避になってしまいがちだ。内面でないリアルの逃避も、逃避行と呼ばれるのはこういうわけだ。だから、アニマだのアニムスなんてのはみないほうがよいと健さんが云う。

漱石の年譜を調べてみた。夢十夜を書いたのは漱石数えの42歳の時。

42歳は男の厄年。手塚治虫も男と女の絶望的な作品を多く描いたのが42歳の前後だった。*2

明治36年(1903年)に帰朝してからの数年間というのは、金銭的にも家庭的にも漱石の最悪の時期であったらしい。「吾輩は猫である」で職業作家となってから間もなく、「夢十夜」は書かれた。男が一番迷う時期というのは本当にある。

前回も書いたが、しかし、パートナーを自分のアニマ、アニムスと重ねられるのなら、それぐらい活き活きと人生を生きる方法はない・・・。自分のパートナーがアニマ、アニムスであったらどうかと、そんな話を冗談めかして数人に話してみた。私の話しに、誰もが賛成してくれた。パートナーを豚だという意見に苦笑するやつもいた。少々危ない方向にそれているやつはむすっとしていた。それでも、それぞれ内面の男、女を抱えていることは自覚していたようであった。パートナーをアニマ、アニムスにするんだという話をすると確かにそれくらい充実した人生を生きる方法はないと誰もが同意してくれた。

この前、私が結婚するときに助言してくれた上司がいたという話を書いた。その数日後に、十数年ぶりに会った昔の仲間から私の恩人であるその上司が数年前になくなったと聞かされた(参照)。

まことにまことに男と女の話はかならず命のやりとりにつながる。それは「夢十夜」のとおり。そして、人として生まれてきてその問題を避けて通るわけにはいかない。いや、避けて通る方が地獄への道に直結している。争っても、相手は何万匹もいる。

死なずに生き延びて、この問題の先へ行ければ、天女のような女、天使のような男がまっている。


■追記

なるほど、その通り。

問題はお前らがあくまでも自分は他人事で関係ないというポーズを取って現状を変える気も金を払う気もないうえに、自分の利権だけは手放そうとしない(以下略)

http://goboubss.blog.shinobi.jp/Entry/694/

漱石夢十夜にも紙幣を数える女というのが出てくる。男にとって、女とはお金を持っていくだけの存在に簡単になってしまう。あるいは、男の邪魔をするだけの存在だと思えてしまう。それがどれだけ間違っているかは、この地の出るようなエントリーを読めばわかる。わかっちゃないわけだ、男なんて。もちろん、男には私自身を含む。


■追記 その2

そうそう、自然と隠さねばならないものはでてくる。

隠さねばならぬ物事というのは、いやがおうでも増えていくのだ。そして隠すという行為は心理的にも物理的にもかなりコスト高な行為である以上、隠してもしょうがないことを隠すのは脳力の無駄遣いではないのか。

404 Blog Not Found:夫婦間の隠し事はとにかく隠し物はやめとくべき三つの理由

一方で慎み深さは夫婦の間でも必要となる。そして、片一方である程度以上追及しないとか、相方が大事にしているものを尊重するとかが大切だね。

*1:と、書いて思い当たるようなことを昔書いたなと思いだした。 試練としての痛み Dear Prof. Eliade: HPO:個人的な意見 ココログ版

*2:ちなみに、手塚治虫夏目漱石も内面からつきあげてくるものすごいエネルギーを感じていたように思えてならない。この辺はエントリーを改めて書く。たぶん。