HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

女はチラ見するもの

ようやく携帯で「或る女」を読み終わった。(参照

いや、ほんとうに読みとおすのがつらかった。これは毒だ。男をして、人生の唯一の希望である女性に徹底的に失望させてしまう毒だ。すっかり、あてられてしまった。

男である有島武郎がこれだけ破壊的な女性のこころに近接すれば、とりこまれてしまうのは当然だ。事実、これを書いた数年後に女と心中した。物語の舞台設定は明治34年(1901年)前後ということだが、100年前にこれだけスキャンダラスな小説が成立していたということは、いまの私たちから見ればおどろくばかりなのだが、逆に言えば今も昔も、たぶん数千年前あるいは数千年先でも男女の愛の力の強さは変わらない。

・人物について
  1878年3月4日、東京小石川水道町に生まれる。東北帝大農科大学で教鞭を執るかたわら、1910年「白樺」に同人として参加。『かんかん虫』『在る女のグリンプス』などを発表する。1916年、結核を病んでいた妻が死に、さらに父が亡くなったことから教鞭を辞し、本格的に文学生活に入る。『或る女』『カインの末裔』『生れ出づる悩み』などが代表作。1923年6月9日、人妻の波多野秋子と軽井沢の別荘浄月庵にて情死。

或る女 (作品データ) - 暇つぶし青空文庫

ちなみに、「或る女」の原題にある「グリンプス」とは「glimpse」のことであろう。

チラッと見ること、一目{いちもく}、ちらりと見えること、一瞥{いちべつ}、垣間見ること

glimpseの意味・使い方・読み方|英辞郎 on the WEB

あまりに生々しく、女性主人公の視点から描かれたこの作品はとても「垣間見」などではない。密接しすぎるは、そこから逆戻りできなくなることだ。男にとって女性のある種の側面への接近は、毒薬なのだ。密接しようとすればするほど、その毒気にあてられてしまう。

或る女」を読了しつつあるときに、たまたま本棚から吉田敦彦先生の「漱石の夢の女」を見つけて、を読み始めた。「或る女」の毒に充てられた私には、実にすばらしい中和剤だ、「キュア」の呪文だ。吉田先生の論じる「草枕」の那美もかなりエキセントリックな人物ではあろうが、実に絵画的な美しいアニマだ。

漱石の夢の女

漱石の夢の女

また一つ大きいのが血を塗った、人魂(ひとだま)のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
 こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑(の)んで、ぼんやり考え込む。温泉場(ゆば)の御那美(おなみ)さんが昨日(きのう)冗談(じょうだん)に云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪(おおなみ)にのる一枚の板子(いたご)のように揺れる。あの顔を種(たね)にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長(とこしな)えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画(え)でかけるだろうか。

草枕」の発表は、明治39年ということで、舞台設定としては「或る女」と大して変らない。しかし、この美しさはどうだろうか。那美に触れることはなく、ただこの主人公のこころに美しい一服の絵としてのみ投影している。女はチラ見するのが男をしてもっとも奮い立たせる。

ちなみに、「漱石の夢の女」の表紙のオフィーリアの絵が実に美しく暗喩的だ。

「水に落ちる女」というイメージに漱石が魅了されていたという。素に草薙素子だなね、我々の世代にとっては。

さて、ここで密接しすぎては女の毒にあてられ、チラ見だけでは人類が滅びてしまうという大なる矛盾が生じる。この矛盾の解決策は確かに存在するのだが、その解決策を書くにはこのチラ裏のようなブログでは足りない。

■追記

イムリーに展覧会が開催されている。

http://www.kamakurabungaku.com/exhibition/index.html

■興味深い

ま、すべてのカップルがそうだというわけではないのだろうけどね。