HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

パブリックとプライベートの間のインフォーマル

先日の女流都市計画家の影響もあってジェイン・ジェイコブズを読んでいる。

「アメリカ大都市の生と死」には、通りにおいける気軽な交流についてかなり分量を割いている。娘の誕生日プレゼントになにをもっていくか、通りの小売のお店の店主に相談する話とか、友達が留守の間に訪ねてくるのに鍵を預ける床屋さんとか、パブリックすぎず、プライベートすぎない、いわばインフォーマルな関係が街の随所にあったと報告されている。

アメリカ大都市の死と生 (SD選書 118)

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街の強さは法律や契約関係ぎちぎちのパブリックでもない、壁を立ててひそやかな楽しみに浸るプライベートでもない、中間的で、気楽で、よい意味での人の目がいきとどいたインフォーマルの大切さだ。

たまたま、昨日の深夜、家に帰ってからケーブルテレビでやっていた「アメリカン・ジゴロ」を見てしまった。

アメリカン・ジゴロ [DVD]

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「アメリカ大都市」が書かれた1961年から「ジゴロ」の1980年までが米国が大きく変わった時代なのだという気がする。本来、人は人に認知されないと生きていけない。気軽に通りを歩いているだけで人から声をかけられ、インフォーマルな信頼関係が当たり前であった60年代は確かに通りに信頼があった。ジェイコブズが通りを歩いて発見した事実を多く書いているのは理由がある。

対照的に、「ジゴロ」には車で移動する場面しかでてこない。通りでは「こと」はおこらず、ホテルのプールサイドか、プライバシーのまもられた寝室でか、ひそやかな「こと」はおこらない。リチャード・ギア扮するジュリアンも、ローレン・八トンが好演していた年上の恋人、ミッシェルも、みなさびしげで所存なさげで誰も信じていいのかわからない。

いや、米国のことを話したいのではない。いまの日本の話だ。

シャッター通りが増えているというニュースをよく聞く。あるいは、いろいろな場所に出張するたびに、街が死んでいくのを目の当たりにする。みな、通りに住む人たちは、ショッピングセンターにやられたという。しかし、完成形で作られてしまうために、新規開店してからあとは売上が下がるばかりのショッピングセンターでは、街の代わりにならない。ショッピングセンターのコリドーは、気軽にインフォーマルな会話や祭りがおこなわる通りには成熟しない。あるのは、個人情報保護法でまもられたプライベートの壁に守られた、むなしいパブリックだけだ。

どうもこの辺が崩壊していった米国の姿といまの日本が重なるように思えてならない。