HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

建築の堆積レイヤー

先日、建築基準法改正への提言を読んだ。

再改正が必要だという立場をとる私からするとこういう提言が出ることは喜ばしい限りなのだが、どうも提言内容がぴんとこなかった。

「アメリカ大都市の生と死」を読んでいて、それは建築物を成長するものとしてとらえていらっしゃらないところから来るのだと思った。

アメリカ大都市の死と生 (SD選書 118)

アメリカ大都市の死と生 (SD選書 118)

大恐慌以来25年間に、一万五〇〇〇人ぐらいすんでいた(スラム街といわれていたニューヨークのイーストエンドという)この地域につぎこまれた最大の担保額は三〇〇〇ドルであったが、これは他のものに比べたら「微々たる金額」だった、とその銀行家は私に言った。他には一〇〇〇ドルとか二〇〇〇ドルのものもあった。この町の修復工事は資金の面では、この地域内での事業とか、貸家の収入を繰り返し繰り返し建設にくり込むことによって、ほとんど全部といっていいほどまかなわれ、技術の面では、居住者同士、あるいは親戚同士ですぐれた技術を交換することによってなされたのである。

これからの日本の地方の未来もかくあるべしである。

建築物の価値とは決して頑丈、耐久性だけではない。"How Buildings Learn"を読めばわかるように、耐久性があっても、さまざまな状況に応じて、建築は変われなければならない。なによりもその建物を利用する主体の文化がなければならない。どのような世代でも、前の世代から受けついだ街、建築物という資産を有効にいかせなければならない。そのためには、常に改変できることが重要なのは言うまでもない。いまの建築基準法では、丈夫さ、頑丈さといひとつの基準だけで考えているため、将来にわたる改変、有効利用の道を閉ざしている。これは文化を投げ捨てるのと同じだ。

How Buildings Learn: What Happens After They're Built

How Buildings Learn: What Happens After They're Built

スチュワート・ブランドの図を借りれば、"skin"も、"service"も、"space plan"も、"stuff"も、無視されてしまっている。

しかし、建築のライフサイクルコストを見れば、使う側から言えばstrcture以外の部分に価値を見出していることがよくわかる。

街は堆積した歴史なのだ。歴史を無視した街は永続しないだろう。

*1:これからの見せていただくのだけど、ビデオで"How Buildings Learn"が見れるなんてすごい!すごすぎる!