本居宣長のこの言葉とハイエクが響き合っている。中川八洋さんとか、切込隊長さんは、異国異土のバークに傾倒するよりも足元の日本の根っこにある言葉に耳を澄ませてほしい。
善神も悪神も畏れ敬うべし
総じて世の中のことは神の恩恵がなくてはどうにもならないものなのだから、明けても暮れてもこの御徳を忘れず、天下国家のためにも、各自自身の身のためにも、多くの神を祭ることは非常に大切なことである。善神を祭って幸せを祈るのはもちろんのこと、また災いをまぬがれるためにもあらぶる神を祭りなだめるのも古の道である。
それに対し、「人の吉凶、禍福は各自の心の持ち方や行いの善悪によることなのに、神に祈るのは愚かである。神がどうして聞いてくれようか」というようなことを言うのが、儒者のいつもの見解であるが、このように自分の理屈ばかりを前面に出して神事をおろそかにするのは、唐戎(シナ人)によくある小賢しい考え方で、神には邪神もいて、非道な災いもあるという道理を知らないための間違いである。
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「神」という言葉をたとえば、自然とか、物理法則とか変えて考えてみてはどうだろうか?「神」をごく操作的な概念だととらえてみてはどうだろうか?操作的な概念とは、たとえばガソリンエンジンの詳細な構造や原理をしらなくとも、ガソリンを給油し、車を運転することはできる。ガソリンを変換して、物理的な力に変えるのは「ガソリンエンジンの物理法則」だ。しかし、こうすればこうなるという「操作」の対象であるととらえれば、それを「ガソリンエンジンの神」といってもよい。「神」というと、超越的なものすべてを含んでしまうため、いろいろさわりがある現代の方々はおっしゃるかもしれない。古代人に肉薄しようとした本居宣長が「神」というとき、それは極めて古事記を読み、源氏物語に酔ったころの人々の感じ方に近いのではないだろうか?
ということでというわけではないが、映画「禅 ZEN」を見てきた。
禅 ZEN
「ありのままで」という製作者たちのメッセージは素直に伝わった。サイトに寄せられた原作者の大谷哲夫さんの言葉は私の中でひびいている。
我々の祖先は仏教に触れ、自然とともに生きる勇気と万物に対する慈愛*1のこころを獲得してきたのです。そんな「やすらぎ」を与えてくれ*2る仏教を、我々は日本人として直観的に支持しているのでしょう。
禅 ZEN
- 作者: 大谷哲夫
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