HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

愛と罪

読了。

あさきゆめみし(7) (講談社漫画文庫)

あさきゆめみし(7) (講談社漫画文庫)

男と女ってむずいなと。二人の男に愛されとまどう浮船。今の感覚からいえば、どってことない場面に深いものを感じた。たとえば、匂いの君に連れられ、川を渡り抱きかかえられるシーンなどは、中世の女性たちが相当にどきどきしたのだろうな。

なによりも物語と歌があいあわさって胸にせまってくる。人の子の嫉妬の闇の深さも、歌によって、ああ、と。

宇治十帖は、やたらと「罪」が出てくる。出生の秘密を抱える薫、庶子として父にうとまれた浮船。ゆれる愛情。光源氏の光の部分と、その子孫の抱える罪がある意味対照になっている。しかし、恋愛にこれだけ奔放な方々にとって罪ってなんだったのかわからない。倫理とかいうよりも、人の感情を害することにこまやかな気をつかい、人の愛情のやりとりを大きく阻害することを「罪」としているのではないだろうか。それは、現代的な意味では罪ではない。


■求められたいという欲望

女性が「女は顔よ」とか言ったり、源氏物語での男女の品格というか、各付けを見ていると、人があこがれたり、あけすけにいえば欲望の対象となることが「価値」であるかに思われる。欲望されることを欲望する。歌による言葉のやりとりも、結局、「あなたがほしい」ということになりますまいか。だからこそ、女性は「言葉に弱い」のではないか。

これを逆にとれば、タカラヅカの成功がなぜかを理解できるのではないだろうか?異性であれば「求められる」ものが同性であればない。従って、「ファン」であっても誰か一人が選ばれることもない。ファン組織があれだけ機能し、チケットがさばけていくのも、「一人」が選ばれることのない世界であるから「女縁」が見事に機能しつづけるのではないだろうか?いや、結局タカラヅカに通われる女性の気持ちがわからない男のひが目なのかもしれないが。