HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「ハイエク 知識社会の自由主義」と「ブラックスワン」

冬休みの宿題や、年末恒例の作業をしながら、池田信夫先生の「ハイエク 知識社会の自由主義」を読んだ。生意気なようだが、大学時代の認知科学から、自己組織化、複雑ネットワーク、政治のあり方など、私が興味を持っていたことがらがハイエクという一人の人物の中で繋がっていることに驚いた。そして、自分がめざすべき方向は、リアルでもブログ界隈でもバーク保守主義であるのだということに改めて確信を持った。

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)

ハミルトンのところを読んでいるのだが「資産」という問題が出てくる。バークの言う「自由」の前提とは、「資産」を持てる者同士がお互いの「資産」に手を出さない誓いを立てることだ。バークの生きた時代では、「資産」を認め合える人間同士しか、仕事の上でも、社会的な交流の中でも、相手にされていなかったという。当時の英米では、プロレタリアというか、自分の身体しか資産を持たない人々に義務を求めることは「常識」外れであったのではないか?

バークとドラッカー - HPO:機密日誌

だから、ハイエクはこう書いた。

「よい塀はよい隣人をつくる」ということわざを理解することは、すべての文明が発達する基礎である。すなわち人は、各個人の境界がはっきりしており、それぞれの領域内では自由に行動できる場合に限って、互いに衝突しないで自分の目的を追求できるのである。広義の(ジョン・ロックが定義した意味での)個人の「生命・自由・土地」についての財産権は、個人の自由をいかに紛争なしに実現するかという問題の答えとして、人類の見出した唯一のものだ。
法と立法と自由I

現代の人々が、公平をもとめ、格差を嫌う感情の根拠は、本書によれば原始部族社会に求められるのだという。一人が狩った獲物を分け合うのでなければ、部族社会は飢えてしまい崩壊するか、狩った人物自体が殺されてしまうという話は説得力がある。「原始共産社会」という言葉が好まれるのは、理由のないことではないのかもしれない。いつぞや共産党の下部組織としてサークル活動をする大学生を紹介するNHKの番組で、「人にやさしいから、自分を認めてくれるからこの活動をしている」とインタビューに答えていた景色と私の中でつながる。共産主義的な主張とは、実は人の感情に基づくものでしかないのではないか?

自由と平等と博愛は、この3つを同時に100%実現できるわけではない。自由を求めれば、どこかで平等は失われ、博愛は二の次にされてしまう。ハイエクが警戒していたように平等を一番大切なことだ強制すれば、自由は失われ、全体主義の中で博愛も失われてしまう。この3つを重み付けすることなく実現可能であるとすることはあまりにも子どもっぽい考えではないか。

正直、拙い英語で追いかけている「ブラックスワン」はまだようやく半分を読了したに過ぎないのだが、どうしても米国流のプラグマティズムな表現に終始していることが鼻についてきた。スタイル的にもわかりやすくすばらしいのだが、たとえば「物語」をありとあらゆる事象に求めることが人の間違いの根源のひとつだと書きながら、自分の本をより多くの人に読ませるためにタレブは本書の中で「物語」を多用しているはなぜなのだろうかと聞きたくなった。

The Black Swan: The Impact of the Highly Improbable

The Black Swan: The Impact of the Highly Improbable

ブラックスワン」の先を本書は行っているとも思えた。タレブの言説は、知的な傲慢さをさけ、「極端な事象が起こる世界」の中でいかに生きるかという意味では、基礎を築いている。しかし、では世界のあり方はという問いや、哲学的な整合性という意味で、いまひとつな部分がある。

知的傲慢さを避け、現代版の「無知の知」で世界に臨むべきだと二人とも主張している。そして、人間の合理性の限界と確率論の不備をハイエクもタレブも歎いている。しかし、二人の問題に対する掘り下げ方にはかなり差がある。タレブは現代的な装いをしてはいるが、ハイエクは本質を直観的する方法論を持っているように感じる。そもそも、タレブとハイエクで背景的には実はあまり差がない。ハイエクは相当に昔の人だと思い込んでいたのだが、ニューラルネットにより人工知能を構想したり、自己組織化にも興味を持っていたというのは驚きであった。

合理主義者は、人は最初から知性と倫理をそなえており、それによって意識的に文明を築いたと考えているが、進化論者はそれは試行錯誤の結果、苦労して蓄積された成果であることを明らかにしている。(中略)そうした自然発生的な制度の意味は、あとになってわかるが、当時は人々がその目的もわからないままにつくった結果、役に立つようになることが多いのである。
自由の条件I

タレブの思考はここまで立ち入れてない。

知的財産をめぐる議論を見ていて、結局財産を主張するからには管理まで負担と責任を持つことが大切なのだと思った。ゲゼルのスタンプ通貨の問題もそうであった。土地や、商品や、生産財など、リアルに存在するありとあらゆるものはメンテナンスを必要とする。物は壊れてしまうし、人は死んでしまうものだ。ゲゼルは、貨幣のみが価値が永遠の価値を持ち、利子まで要求すると主張していた。

ハイエクというよりも、池田先生の主張だとは思うが、知的財産も所有し続けるのにコストが直接にはかからない。逆に、人類全体の叡智の元に作られたものではない知的財産は存在しないだろう。音楽作品であっても、それ以前の音楽に影響を受けていない音楽はない。ありとあらゆる工学的な商品は、ニュートン力学を応用しているのだろうがニュートンか、ニュートンの子孫に知的な成果の使用料を払っているという話は聞かない。

こうした分野に有体物と同じ財産権の概念をまねて適用することが、独占がはびこるのを大いに助長しており、この分野で競争が機能するには抜本的な改革が必要であることは疑問の余地がないように思われる。
個人主義と経済秩序

このもう少し先に、なぜ健全な保守主義が日本で定着しなかったか、そして、そのために試行錯誤と人の叡智の結果としての慣習法ではなく実定法が企業家精神イノベーションを破壊するかという話になる。世界は予測し得ないのだから、先手先手を打とうとする立法は「知的傲慢さ」にあふれた行為だ。

このような不確実な世界を正しく予測していた、ほとんど唯一の経済学者としてタレブが評価するのが、フリードリヒ・A・フォン・ハイエク (1899〜1992)である。

指定されたページがみつかりませんでした - goo ブログ