HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「死ぬこととみつけたり」のたくらみ

隆慶一郎という人を知らない。しかし、「死ぬこと」は始めから深いたくらみがあって書かれたように思われる。そのたくらみを言葉にするために「静かなる細き声」の続きを読み始めた。

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

「レッテル」の章まできてこれ以上読むとそのまま山本七平になってしまいそうなのでやめた。

天草四郎に杢之介が共感するあたりから、これは死人という「私」を離れた超人の物語ではないと気付いた。解説を読んでそもそも軍隊の体験、それもランボォを葉隠にはさみこむところから、これは日本について真摯に考えようとしているのだと思った。

山本が「静かなる細き声」で「仮想敵」としているのはけもののような日本人の伝統だ。口伝えすらされないのにキリスト教すら腐らせてしまう根強い日本人の見えない「宗教」とは何なのか?痛快な時代小説の形を取りながら隆慶一郎のこの問いが常に問われている。

この意味でその死によって書かれなかった杢之介のふだらく行とは回心であったのか?それとも日本人の中の絶対の発見であったのか?

もっとも山本と隆慶一郎が突き付けるのは、山本の言うキリスト教によって築かれた絶対的な西欧流の生活倫理を輸入しながら、日本の底流を少しも捨てていない現代人の「プリンシプル」のなさかもしれない。

いま「日本型民主主義」まで来たが、この孟子はそのまま杢之介の出張だ。

あるいはこう問うべきかもしれない。絶筆するまでに隆慶一郎は杢之介を通して「静かなる細き声」を聞いたかと。

死ぬことと見つけたり〈上〉 (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり〈上〉 (新潮文庫)

■参照

やっぱり、Dainさんのご意見は欠かせない。

「いかに生きるか」という問いは、そのまま、「いかに死すべきか」につながる。

正しい死に方「死ぬことと見つけたり」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる