HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

生きぬくための経済学は存在するのか?

昨日書きかけでやめてしまったのだが、論語のことばはすばらしいと読むたびに感じる。たとえば、「辞は達するのみ」だと。言葉は人に伝わってこそ言葉である、と。ああ、こういう人に伝わらない文章をいつまでも書いていてはいけないのだな、と反省させられる。

生きぬくための知恵がやはり論語にある。しかも小学生のころは小学生なりに、中年になれば中年なりにその言葉をかみしめることができる。学而第一も決して凡庸な言葉ではない。*1

話しはそれるが、論語をはじめとする古典の素晴らしい「資産」を持っているのに、現代中国人と会う時に感じる彼独特の深い失望感はなんなのだろう。中国古典という「資産」の反対側にある「負債」にはなにが載っているのか?あまりにリアルに歴史を記録していることは実は不幸なことなのか?王朝の断絶が不幸に拍車をかけるのか?徳治を理想としながら、パワーゲームによる王朝の交代に統治の正当性を示せないことが不幸なのか?そもそも、建国に明るい神話を持てないことが、不幸なのか?

先日、現在の中国の歴史は秦の始皇帝に始まるというドキュメンタリーを見た。"China"、「シナ」とは秦なのだと。秦の始皇帝の簒奪、残虐さはあまりにも有名だ。高い倫理的な思想を示した聖人の存在と、始皇帝の暴虐ぶりの両方が現在に至るまで明確に伝わっているということがある種の失望の種なのか?あるいは、中国人の人の命が軽くとられるような独特の性悪説のようなものはごく最近醸造されたと取る方が正しいのか?

よくわからない。

ひるがえて、現在に生きる我々は、論語の示す生き方と経済活動をどう合致させたらよいのか?どう生き延びるために使えばよいのだろうか?

論語が君子の学として存在したことは間違いない。論語をいまは個人の生きぬくための学として受け取っている。

現代は経済の時代であることは疑問がない。一般人にとって、経済学がなければ生きていけないわけではない。しかし、経済学者が政策を決めていく上で極めて重要なポジションを占めているのは事実だ。避けては通れない。

ちと考えがまとまらないが一旦置く。改めて考えたい。