むかーし「経済史の理論」を読んだときに作ったぬきがきが出てきたので、記録しておく。どっかでつかったのかなぁ?どうにも記憶がない。
- 作者: J・リチャード・ヒックス,新保博,渡辺文夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1995/12/04
- メディア: 文庫
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p.100
しかし、拡大が停止するこの時期は、別の観点からするとすばらしい時期であるかもしれない。利潤水準は依然として高いが、利潤を拡大のために再投資してはならないというのが高利潤維持のための条件となっている。この条件が受け入れられさえすれば、富はあるし、それに安全も保証されている。人々は社会においてそれぞれの地位、それから離れることは許されないが、同時に他人からの侵略から保護されている地位を持っている。この侵略に対する防衛の機関であるギルドやギルド類似の組合を通じて、新しい形態の人間共同体をつくり出すことができる。それは社会主義的ユートピアといっても良い程で、事実多くの社会主義的ユートピアはなんらかの程度においてそのような面を持っている。
すばらしい成果は他にもある。拡大を特徴づけた活気は直ちには失われないであろうが、いずれ活気は商業の革新から去って他に向かわざるを得ない。だが、安全の保証と富があるので、他の分野に転ずることが可能である。商業の拡大は知的刺激を与えていたが、それがもはや知的活力の対象となり得ない時点に立ち入ると、芸術は芸術のために、学問は学問のために追求することが可能である。アテナイ人が「芸術の母」となったのはその商業拡大の末期であったし、フィレンツェとヴェネツィアが「最盛期ルネサンス」の母国となったのは、その商業が拡大を完了した後であった。われわれはそれらの生み出した成果によって、それらを永久に忘れないでいる。しかし、果実が熟れるときは常に秋なのである。
これらの都市国家は商業を存立基盤としていた。したがって、その商業活力がなくなったとき、それは危機に陥った。どんな経済も変化や予測できない危機におそわれることがある。それゆえ、拡大の能力が失われると、災難から立ち直る能力もともに失われることになる。これは「商人経済」が衰退していく一つの理由である。
p.193 農業の商業化
(前略)しかし、「国家」が地方の秩序を、少なくとも地方の諸候が維持してきたのと同じ程度に維持することができるようになるか、あるいは通常の場合は維持できるようになるときやってくるに違いない。そのような時点に達したとき、いったい土地領主の「権利」のうち何が残るであろうか。
その場合、土地領主が退かされ、「国家」がそれを引き継ぐことは可能である。けれども、交換が可能であるということは必ずしもそれが現実に起こることを意味しない。それが起こる場合には、常に革命的様相を帯びる。「国家」は強力かもしれないが、革命を望むことはないであろう。土地領主は機能を失っても依然として残ることになる。いまや彼らなしですますことも可能であるにもかかわらず、彼らは飾りものの貴族として、自分達の生計を支える収入を引出し続ける。しかし、「国家」が彼らを引き継ぐ力を持つことになると、結局はそれを実行しようとするにいたるのである。
ミネルバのふくろうというか、商売はあきないというか...