HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「硫黄島の銃撃戦」を見た

最近、真剣民放を見なくなり世間の話題から取り残されている。日頃のくだらないことをさも重大なことのように解説する連中を見ているのがいやだというのが最大の理由。日々のことより時間と空間をおいたものごとの中にこそ真実あるように思う。

たとえば、歴史だ。

昨日の晩に見た。

硫黄島の戦いは、すりばち山の山頂に旗を立てる写真で最も知られている。だが、この写真には語られていない物語がある。
写真が撮影される直前、山頂で壮絶な銃撃戦があったのだ。これは7万人ものアメリカ海兵隊員が、13平方キロに渡る死の土地で塹壕に潜む2万1千人の日本兵と戦った太平洋の悲惨な戦場において、真実不屈の精神が退役軍人たちによって語られた物語の1つにすぎない。

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クリント・イーストウッドの思い入れが少々強すぎて、「父親達の星条旗」を見ただけでは歴史的な流れを理解できていなかった。

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摺鉢山に立った星条旗がふたつという話もようやく分かった。硫黄島をモチーフにしたワシントンDCのマリーンのモニュメントはヴェトナムメモリアルはもとより、合衆国の戦勝記念碑の中で最大ではないだろうか?あまりに巨大なので、このモニュメントだけはじっくり見る気になれなかった。それくらいこの勝利は米国にとって大きかったのだろう。

23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し星条旗を掲揚した。午後12時15分に改めて5フィート×8フィートと先の旗の2倍となる星条旗を掲げることになり、AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールがその瞬間を捉えた写真とあわせ写真3枚を撮影した。この写真は同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞している(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")。アメリカ海兵隊は創立以来常にその存在意義が問われ続けていたのだが、硫黄島の戦いは水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示したのだった。フォレスタル海軍長官は海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたスミス中将へ語った。「これで海兵隊も500年は安泰だな。」[7]

その後、日本軍が反撃し星条旗を引きずり下ろして日章旗を掲げたが、米軍が奪回して再び星条旗を掲げ直すという争奪戦が2度に渡って繰り広げられた。最後に翻った日章旗は血染めだったという。

硫黄島の戦い - Wikipedia


それにしてもこれだけ壮絶な戦いが昭和20年に入っていても繰り広げられ、番組に従えば「東京大空襲を一日でも先へ延ばすことに命をかけていた」という栗林中将の生き方にただただ感動する。

合理主義者で、用意周到な大規模地下陣地を構築し、将兵を爆撃・艦砲射撃に耐えさせ、万歳突撃による玉砕を禁じ、徹底的な持久戦を行って出血を強いる作戦に出た。これは本土防衛のための時間稼ぎであると同時に、アメリカ国内の世論が戦闘結果より米軍の死傷者数に敏感なことを意識してのことでもある。その結果、日本軍の死傷率は実に96%を越えるが、物資も豊富で兵力も3倍以上のアメリカ軍に対して敵・味方も予想し得ぬ長期にわたる善戦をし、大戦末期としては異例の打撃を与えた。

栗林忠道 - Wikipedia