HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

企業の存在価値とはなんなのだろうか?

私にとっては企業とはなんの疑問もなくあるのがあたりまえのであった。それは、理想の実現の方法であり、人々の共有の信念の塊であり、生活の糧を得る場であり、生活の場そのものであり、個々の欲望と共通の目的を調和させる装置であり、アルファにしてオメガであった。

...池田信夫さんのブログを読むまでは。

経済学の立場からいえば、市場経済の目的は「消費者余剰の最大化」しかないので、文化庁の「企業の利益と消費者の利益の調和」などという論理は誤りです。企業の利潤は、消費者に利益を提供したリターンにすぎないので、ゼロになるのが効率的な状態です。

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「経済学の立場からいえば」という前提がどうしても、私には「経済としては」と読めてしまえてならない。以下、一旦「経済学の立場」を「経済の立場」と読み替えて思考実験してみたい。

まず、私にとって企業とは、現代においてマネジメントとその結果としてのイノベーションが起こる母体として不可欠なものだととらえてきた。企業なしでは人々は規律を持って、進歩を指向して生きていけないものであった。そう、それはちょうど以前米国にいたときにある女学生が語ったデモクラシーへの愛と同じなのだろう。

米国の女の子が、「デモクラシーのない世界なんて考えられない。デモクラシーのない社会では、誰も顔をあげて通りをあるけない。」と言っていた。米国でデモクラシーといういうとき、単に主権が人民にあるということをこえて極めて情緒的な、極めて道義的な、要素を含んでいるように感じた

米兵は「最後の人間」か?: HPO:個人的な意見 ココログ版

私にとっては企業が存在する倫理的基盤が存在するのでなければ、人は顔をあげて通りをあるけない。企業がなければ、人は夢を持って今を強く生きられないと私は信じていた。それはちょうどジェームズ・アレンの「「原因」と「結果」の法則」で「搾取」について述べられているのと同じ理由だ。

これまで人々は、こういい続けてきました。
「搾取する者が存在するために、多くの人たちが奴隷のようにして生きている。搾取するものはけしからん」
しかしいまや、正反対の立場からこのように言う人々も増えてきました。
「奴隷のように生きている人たちがいるために、搾取する者が必要とされている。奴隷のようにして生きている人たちこそが問題なのだ。」

企業がなければ、人は奴隷のように他動的でしかないと主張する私は、傲慢であるのかもしれない。現代の日本において企業に代わって人を教育し、目的を共有させ、マネジメントとイノベーションを担える主体はないのだという私は、あまりにも不遜なのかもしれない。

では、企業のない世界とはどのような世界であろうか?

てっとり早いのは共産主義の理想とする社会体制なのだろうが、いまだかつて見たことはないし、これからも実現するとは思えない。中国すらすでに共産党は捨てられなくとも、共産主義は捨てたように見える。

スタートレック・ネクスト・ジェネレーション」の世界には企業はなかった。大混乱の21世紀を人類が生き延びれれば23世紀までには実現するかもしれない。が、これはエスエフの世界。

23世紀以降の地球からは貧困や戦争などが根絶されており、見た目や無知から来る偏見、差別も存在しない、ある意味で理想的な世界と化している。貨幣経済はなくなり、人間は富や欲望ではなく人間性の向上を目指して働いている。

スタートレック - Wikipedia

企業がなく、かつ消費者が無制限に守られている経済が存在するとすれば、それはオメガマンの世界ではなかろうか?人は高度に進んだ政治体制と科学技術の元では、ウェルズが予測しように野獣のような存在になりうる。フランシス・フクヤマは読んだが、ヘーゲルは読んでいないのであまり知ったかぶりはしない。

どう想像の翼を広げても企業活動が認められない、企業の利潤は0でかまわないという社会は私には想像できない。すべては公共セクターでよいというのなら、いまの日本においてそれは停滞を意味することに他ならない。まして、企業が存在しない体制を選んだ国と、存在を促進する体制の国との競争の中で言えば100年分くらいはイノベーションにおいて取り残されてしまうだろう。

一方で、どれだけ消費者保護のために規制を厳しくしても私有権を制限されないかぎり、企業が生かすべきビジネスチャンスは存在するのだとも私は堅く信じている。つまりは、企業、もちょっと広げて商行為は人が所有の概念をもったところから始まっている。たぶんそれは異性を所有できると女と男が思った瞬間から交換が生じて、今にいたっているのだろう。市場原理そのものが商行為という交換を、そして信頼というシンボリックな交換による集団の力を利用した企業という商行為の担い手を志向しているように思えてならない。

いや、ちょっと飛躍しすぎたか。

池田信夫さんに「企業利潤0」の「経済学的市場原理」が達成された社会体制はいかなるものかご質問したいと思うのはあまりに僭越だろうか?