HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

某国と日本でなぜお金の使い勝手が違うか?

これは、本当に不思議。不思議としかいいようがない。

日本では、2倍のお金を払っても、2の平方根になってしまうような気がします。それに対し、滞在中の国では、2の二乗になるような気がします。

価格差と中身の差 : 「揺れるマンション」顛末記

観光で言った物珍しさの域を超え、「priceless」なんてコマーシャルにだまされていないとしても、いくつかの国に行った時の「高いものを買えば買うほど、幾何級数的に満足が高まっていく」現象を何度も経験してきている。

逆を言えば、日本では「安かろう、悪かろう」が絶対に成立しない。コンビニの弁当であっても、100円ショップであっても、数十円のドーナッツであっても、異物混入があったり、店の対応やコンプライアンスに問題があったら、この数年で実例にことかかないほど起こっているような企業不祥事に発展してしまう。

たとえば、家族を連れて数年を過ごした米国においては、すべて自分でやろうとすれば、限りなく経費をかけず生活できる。車検だろうと、住まいであろうと、大概のことは自分でやってしまえる。ただ、見事なまでの非日本的サービスと、忍耐の限界までの時間的リソースをつぎこむことができればという前提だ。

逆にお金をかければほとんどのサービスは帰る。子どもの誕生会にピエロをやとって盛り上げてもらうことでも、すべて自然素材の某上院議員御用達だというレストランで食事をすることも、バーシェフスキーだのどっかの長官だのが直接講義しているリーダーシップセッションに参加することも(これはあまりお金がかからなかったかな)、想像できるかぎりのサービスがある。昼でも夜でもお金さえかければとにかく楽しいことにはことかかなかった。

日本においては、10万円のものをかっても20万円のものをかってもgskayさんが指摘しているようにあまり満足度が変わらない気がする。ベーシックな品質が保証されている分、そこから飛び出た分の感動がないからなのだろうか。

ま、どうもこれから日本でもそういうことが変わっていく気配はあるのだけど、やはり「自分のことは自分で」というのが日本人らしさでないのかなぁ。んで、そういう日本人らしさって自然発生的にできたものではなく、かなり自覚的に幾人かの人が作り上げてくださったものなのではないかという考えに最近たどり着いた。