HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

吾日三省 21世紀の地域の建設会社バージョン 試案

なんか1日たったら気が抜けている自分がいる。でも、ま、書けるところまで書いておこう。

昨日こう書いた。

結局、すべてのものは自然あるいは私のイメージでいえば太陽という純粋贈与から生まれているのだと思った。また、人の世では贈与と交換しかありえず、いずれも他者への信頼という「資本」がなければ成立しないのだと思った。

そして、鏡像関係とは実は「反省」なのだとイメージした。

HPO:機密日誌

いや、ようはももちさんのおっしゃっていることを、id:tangkai-hatiさんのご指導のもと、少しずつ理解しつつあるというだけのことなんだな。

Web2.0と建設業―4月20日CCPM合同勉強会での講演用PPT

特にこの図だ。

あー、正直に告白しておけば一昨日自分でメモを作った時点で言葉を間違えていた。「生産」でなく「純生産」であり、「商品」と「資本」の位置も違っていた。それでも、根本のイメージはあまり変わらない。いや、変えたくない(笑)。

そもそも、ボロメオの三位一体の輪は、非常に応用の範囲が広い。ももちさんが「普遍経済学」と呼ぶのは、ありとあらゆる階層に応用可能だからだということは直観的に理解できる。「応用の範囲」を私の好みの言葉でいい変えれば、どの「レイヤー」でボロメオの三位一体構造を発見するかということになる。どのレイヤーに適用するかという問題は、「自己」、つまりは「贈与」の主体を誰だと規定するかによって決まる。贈与のみが人にできる行為だからだ。

「贈与」の主体を現代日本の一個人ととれば、「純粋贈与」は会社かもしれない。民族学的な興味を含む、抽象的で普遍的な経済主体ととれば、中沢新一の論につながるのかもしれないが、それは今の私にとってはあまりに縁が遠い。私のとるべきレイヤーはももちさんの描かれた「建設業者」を主体とする「結び目」だ。

建設会社を贈与の主体と設定すれば、「純粋贈与」は「共同社会」となるというももちさんのイメージは非常に強く私に伝わる。建設の仕事はいうまでもなく「共同社会(市民社会)」を作る仕事そのものだからだ。「土木」が「civil engineering*1」と呼ばれるのは伊達ではない。治水から、道路の整備、あるいは古代からの主要な生産技術である農業土木、みな共同社会が共同社会であるために必要な仕事をしている、いや、していた。共同社会を安定させ、繁栄させるための必要な「贈与」構造を作る「civil engineering」はその発生からすでに政治と経済に深くかかわってきたわけだが、本来的でない目的で使われすぎたので現在の非常に矛盾した事態を生じている。この問題は最後でもう少し後で触れる。

逆に、とるべきレイヤーを私からできるかぎり先へ先へ、外へ外へイメージしていくと「純粋贈与」の主体は「太陽」になる。

ああ、太陽は見返りをまったく期待せずに、空に輝いている。その力でぼくらは生きているんだ。

麗しい澤: HPO:個人的な意見 ココログ版

日の下にあるもので、太陽の恩恵を受けずに産み、育ち、死んでいくものはない。

このイメージを持ったままぐっと身身近にこの輪を寄せてみる。

繰り返すが、建設会社の存在理由は、先ほどの「civil engineeering」という言葉に象徴されるように、市民社会、地域社会の繁栄である。建設会社側からみれば、地域社会は、農業における土地や太陽のような存在である。この恵みを受けてはじめて農業従事者は作物を育てることができ、建設会社は市場における交換という経済活動に参加し、存続することができる。つまり、この3つの輪の外側にある物質的、労働的な流れは時計回りに流れていく(図中の青色の矢印)。

バランスシートというものをご存じだろうか?ある時点での会社の資産、負債、資本を金額で表したものだ。商売を継続する上で必要な資産をどのようにまかなっているかを一目でわかるようにした資本主義における最重要の道具だ。このバランスシートでは、左側の資産の欄を「Debit(借り方)」と呼ぶ。逆に負債と資本を「Credit(貸し方)」と呼ぶ。そう、現代では誰もが何枚も持っているあのクレジットカードのクレジットだ。

つまり、会計学でいうところの「資本」とは、クレジットと言われるように、人からの信頼そのものである。負債も「Credit(与信)」と呼ばれるように、信頼がその底にある。そして、建設会社は純粋贈与という存在そのものである地域社会、市民社会へ「信頼」を媒介として依存している。「贈与」側から言えば、地域社会の信頼に応える、また陰に陽に地域社会に感謝するのでなければ、その存立基盤を否定することになる。

感謝と信頼の流れは物質の流れと逆になる(緑色の矢印)。

私にとって信頼と感謝の流れとは謙虚であるということであり、id:tangkai-hatiさんからキーワードをもらった「完璧な鏡像」の問題にそのままつながる。

「己を写すという鏡が恐ろしすぎる」

「己を写す鏡に、常に「正像*1」を求めすぎて果たせない」

完璧な鏡像 - tangkai-hatiの日記

結局のところ、鏡像を作る軸をどこに求めるのかが問題の核心なのだ。

その前に、鏡像についてもう少し図で考えてみよう。己の鏡としての2つの軸によってわけられた4つの象限に鏡像を配置すると、3つの鏡像が想定できる。

このとき、次第に軸を倒していくと、3つの鏡像を通じてどこに自分を見出すべきかという問題の問いかけに見えてくる。そう、キアスムのむすびめのように私には見える。

個人的な会話の中でももちさんがおっしゃった「4つにわかれるはずなんだが、3つなんだよな」という言葉が私の中で響いているのだが、2つの軸と3つの鏡像がキアスム的関係を結ぶ時に、ボロメオの輪が見えてくるのではなかろうか?そして、それはid:tangkai-hatiさんの言葉通り「恐ろしすぎる己の鏡」なのだ。そして、この鏡とはボロメオの輪につながる2つの軸に他ならない。

すでに現代の建設会社が直面する2つの軸は、ももちさんが随所にご指摘されている。

そのひとつは「情報発信」という軸だ。つまりは、地域社会という「鏡」に自分を写し、その姿を反省することだ。建設会社は、あまりにこれまでシャイでいすぎた。自分達の向かうべき夢と「純粋贈与」である地域社会への感謝と信頼を有言実行しなければ、すでに失われてしまった信頼を回復することはできない。地域社会が食らえといえば食らえばいい。買えと言われれば買い、売れといわれれば売る。それに尽きる。

もうひとつの軸は政治へのコミットメントの見直しという問題ではなかろうか?これは、本来の純粋贈与という地域社会の構造そのものに己の姿を映すことだ。あるレポートによれば、「格差社会」問題とはある意味で幻想であり現在起こっている現象は、すでに近い過去にそれ以上の格差を経験してきているという。ただし、政治が地域から手を引く、公共工事をに関する政策を変えるという不安から「格差社会」というイメージが生まれているのだと指摘する。建設会社は、政治へコミットしすぎた。政治へのコミットと地域社会への貢献というのは、実は違うものなのだという「鏡」の前で反省しなければならない。

反省する、自分の「鏡像」を見つめ続けるという意味で、地域社会、ネットワーク、そして政治の変化を含む時代の変化を見つけ続けなければならない。

かくして、曾子にならい私が地域の建設会社のための「吾日三省」を作るとしたら、以下のようになるだろう。

今日一日、私は、地域社会に対して「忠」を尽くしたか?心から謙虚に感謝したか?*2
今日一日、私は、情報発信をあらゆるチャンネルで試みたか?ももちさんの記事を読んだか?*3
今日一日、私は、変化する社会に謙虚であったか?学び続けたか?互いに繁栄するべく相手と真剣に向かい合えたか?

全然まとまっとらんが、自分にとってとても大事なので敢えてここに書いておく。
ももちさん、おっしゃっていることをゆがめまくっておりますが、お許しください。

■参照リンク
鏡像としてのWeb by ももちさん 必読!
パトリby ももちさん 必読^2! 私の4つの象限は90度ずれていた。反省。

■追記

わーい、ももちさんからとらばもらった!ありがとうございます!

*1:wikipediaにはこうある。「Civil engineering is the broadest of the engineering fields, partly because it is the oldest of all engineering fields. In fact, engineering was once divided into only two fields - military and civil. 」つまり、「工学はもともと軍用と民用の二つに分かれていた」というのはちょっとびっくり。

*2:「利益のためのみの仕事に浮気しなかったか?」も加えるか?

*3:「ブログの記事を書いたか?」は当たり前?