HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

ものごとを調べる習慣と余裕

気がつくと仕事をすごくおざなりというか、表層で捉えていたことに気づく。

ここは資本主義の世の中なのだから余裕があれば、きちんと次の収益に向けて再投資すべきなのだ。

どっかの雑誌の記事でインドが食料の輸入を始めざるを得なくなったのは、「緑の革命」の遺産を再投資することなく食い潰してしまったからだと書いてあった。

自分自身をとってみても全く一緒だろう。収益をあげ、給料をもらったら、酒ばかり飲んでるのではなく、きちんと次代のために再投資すべきなのだ。

ただ、この変動の激しい時代においては投資と回収の期間が非常に短いか、非常に、多分永久に近いくらい、永いものの2つに分かれざるを得ないのではないだろうと感じている。多分、いまのニューヨークの摩天楼を作った会社は現存していないだろう。まして、いつか見てきた南フランスの城壁都市を築いた領主も去って永い。時代の変遷の中で、かかったコストを回収するのか、放棄してしまうのか、自分の商売はいずれを主においているのか、永続する意思があるのか、瞬間的に利益最大にすればいいのか、明確に意思決定をしなければいけない時代なのだと想う。

とはいえば、商売は昆虫のような眼が必要だ。ただただ、なすべきことをなせと自分に言い聞かせる。


いかん、話があっちの方向へ行ってしまった。

んで、どうもあちこちで無責任なことを書き散らすときはまじめに調べたりしているくせに、自分の商売でそこまで調べてないんじゃしょうがないだろうと自分に言い聞かせたかった。

なんでほぼおんなじ様なことをしているのに、仕事だとしんどくて、遊びで書いていると楽しいのだろうか?仕事を遊びとすべきなのか、遊びを仕事とすべきなのか?うーむ。ひとしきり悩む。子どものような気持ちで仕事に迎えるのなら最高だろうなとは想う。