HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

セックスを罪だと教えていることが罪だ

日本人と米国人の性愛行動でやっぱり一番違うのは、セックスが好きだ!と公衆の面前で言ってのける明るさがあるかどうかではないだろうか?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060826-00000103-yom-soci

http://www.medical-tribune.co.jp/ss/2001-2-25/ssJan02.htm

どこをどう間違えたのか知らないが、もともと世界最古のヌードショーをやってのける明るい八百万の神々を持っているにもかかわらず、現代日本においては「セックスをする」というのはどこか引け目を感じる行為になっている。特に若者の間で、「身体が目的だったのね」というセリフは、相手と自分の関係を根本から否定するセリフになってしまった。

身体が目的で何が悪いんだ!相手をセクシーと思うことからやっぱり恋は始まる。清純さだけでは、恋は実らない。

「女がほしい!」 or 「男がほしい!」 とさけんでみろ、と私は言いたい。

この明るくおおらかで必然である行為を、非常に否定的に教育する学校があるから、ゆがむのではないだろうか?

近代において性行為を否定的に教育しだしたのは、一体いつからなのだろうか?もちろん、子どもに対して責任をもてないにもかかわらず妊娠させてしまうあるいは、堕胎をさせてしまうということは、できる限り避けるべきだ。性教育で否認を、いや、避妊の仕方をしっかりと教えれば、セックスすること自体は悪ではないと教えるべきではないか?

もっといえば、教育プログラムうんぬんということ以前に性的なことを異性に対してほのめかしたり、コンドームを買おうとしたり、ヌード写真を見るときに感じる内罰的にとりこまれてしまっている規制とはどこから来るのだろうか?

うーん、これすごい。↓

「資本主義というのは性の禁止によって継続していると岸田秀はいっている。」

@ 終身愛と「有料セックス資本主義」

ほとんどこの一言で言い尽くされている気はするが、結婚という終身売春という話や、終身の保証制度がという不確かな未来のためにどれだけ政治経済体制がゆがめられているかといった話がじつにヴィヴィッドに書いてらっしゃる。

ついでに、といっては失礼かもしれないが、すんごい掲示板を発見。

そのような中において、あらゆる危機(更にマイナスや不快)を子ども達の周りから排除していく「安全志向」や「快適志向」は、更なる過保護状態を作りやすい(従って状況判断力や耐力をより貧弱にし、自己中も生まれやすい)、実に危険な潮流でもある事も意識する必要があると思います。

過保護空間 - るいネット