HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

集団知を引き出す、開放系の組織論

最近、確かに集団知というのはあるのかもしれないという気になっている。以下、書くことは私が考えたというよりも、ほとんど教えていただいたことばかりだ。教えていただいた方に逆に御迷惑になってはいけないので、その方々のお許しをいただくまで、あえてお名前をあげるのを控えさせていただく。

Shirky: Social Software and the Politics of Groups by Clay Shirky

2002年と多少旧いが、面白い論文だ。Social Softwareとは、ブログやRSSSNSといったコミュニケーションを広げ、深めるソフトウェア環境のことを指しているのだと受け取った。この論文は、いま夢中になっている「開放系の組織論」(open-system organization)にヒントを与えてくれる。この論文ではネット界隈を意識して書いているので、明確な「組織」の外枠の定義が与えられていない。しかし、Shirkyの考えを会社とか、国にあてはめればかなり私の「開放系の組織論」のイメージに近い。Shirkyも「どのようなバリアーを設けるのが、最もよいか?」という問題を、ネット界隈における認証の問題を含めて考えている。やはり、境界が問題なのだ。

ただ、私の感覚だと個々の参加者のふるまいを方向づけるのは「教育」ということになるのだが、Shirkyだと「Constitution(憲法)」になってしまうのが、文化的な差というか、おもしろいところだ。もっと言ってしまえば、組織論を論じながら、いつのまにか親子の関係に行き着いてしまうところが、私が日本人的すぎることの証左なのかもしれない。

どうしても、米国人がこうした問題を論じると、「政治的」な話になる。politicalという言葉を簡単に「政治的」と訳してしまってよいのか、迷うところではあるが、「技術的」でも、「情緒的」でもなく、「力」と「利害の調整」であるという感覚、そして人々の利害は決して一致しないと言う前提を置いているのだろうということは伝わって来る。

そして、「政治的問題」が「力」に焦点をあてるかぎり、ネット界隈における現代のオストラシズム(追放、村八分)につながると思う。つまり、ルール違反者をどう排除するかという問題だ。

ぐっと目線を自分に近づけ、企業内でSocial Softwareを活用しようとするとき、どのようなことが考えられるか考えてみたい。渡辺聡さんのすぐれた記事によれば、企業内のデータと外部の検索がシームレスにつながるような製品が出始めているのだという。要は、グーグルデスクトップが他の人のパソコンだの、企業サーバーだのまでその魔手を広げているというイメージであろうか。

エンタプライズサーチ事始め by 渡辺聡さん

カンファランスとやらを終えられ、帰国されてからのブログが楽しみだ。

こうした、企業内検索システムと個々人の評価をからめることはかなり有効であると感じる。多分、企業内のデータや帳票、プログラム、ウェブアプリケーションに対するグーグルのPageRankのような、ランク付けを、常にダイナミックに生成することは可能であろう。企業内のみんなが使えば、使う程、そのファイルの価値評価は高まるといことだ。これまで暗黙のうちに評価されたり、流通してきた企業の作成された帳票やデータベースなどの参照リンクが一人一人の社員の評価につながりうる。そして、それらのPageRank的なポイントは、参照されるデータ(文書、表、RDB等)や、利用されるプログラムを書いた人物へのインセンティブへ結びつくとかいくのではないだろうか。また、非公式だといわれていた社員間の繋がりもSNSのように、可視化される。やはり、どこまで言っても「情報というのは情けの報せ」なわけだ。この辺の文脈といったものも、公式の組織とは少しだけずれたSNS的なつながりを誘発するような仕組みがエンタープライズサーチの利便性とならんで、social softwareの価値となってくるのだろう。

また、外部のデータに対してもSNSソーシャルブックマーキングがそうであるように、その企業独自のシステムの中で、社内的な価値観を共有させる機能をおうことが可能になるであろう。最近のリアルとブログ界隈の流れを見ていると、ものそのものというよりも、そのものの共通の評価が具体的な価値を持ち始めているのだと思うことがたたある。その一つの極はマスコミに対する評価なのだが、ややこしくなるので、ここではこれ以上ふれない。

言葉を変えれば、企業内に分散して存在するデータのマイニングというか、ほりおこしというのは、実は価値が高いのではないだろうか?データベースなどまで、ひとつの検索ソフトでデータが出てくるということは、これまでミドルウェアと言われていたさまざまなデータベースなどを繋ぐソフトがなくなりうる。今日、たまたまある知人の会社の電話番号を調べる必要があって、戯れにグーグルに対象の人の名前をいれたら、ウェブ上の検索の上に、大昔に作ったエクセルの表にその人の名前と電話がはいっていることが表示されていた。こうした幸運な偶然が企業内のデータすべてに対して働くのだとすれば、生産性は飛躍的にたかまりうる。

企業の経営の立場からすると、現在グーグル村八分というのが問題になっていると聞くが、知的労働者の生産性指標を、こうしたエンタープライズサーチや、social softwareの利用価値との間で定義し、評価する仕組みを作ることがとても大事になってくる。ライブラリーに載っていないソースコードエンタープライズサーチで探して来て、組み合わせることによって必要なアプリケーションをいかに短時間で、いかに全体から評価されるものを作るかがとても大事になる。最近のアプリケーション開発を私は間接的に聞くだけだが、アプリケーションの本質的な部分のコーディングそのものよりも、デバッグというか、評価と使い勝手の向上という部分の方が時間がかかっているのではないだろうか?企業内のウェブとエンタープライズサーチというのは、この問題をも解決しうるのかもしれない。

なによりも「オープン・システム」な組織設計という観点からいえば、こうしたエンタープライズシステムの利用者にとって外部をどのように定義し、どのように見せてあげるかがとても大事だと考えられる。負のPageRank的なシステムを含めて、サーチシステムの中に外部の環境に対する企業全体からの評価を入れて見せてやるということは、組織というのは外部とのやりとりにこそ価値を産むみなみとがあるという原則から言っても、必要なことのように思える。

しかし、実はこうしたsocial softwareが有効であればあるほど、自己組織化臨界現象というか、金太郎飴培養基というか、企業の中でマイナーなんだけどしぶい役割をしている人が埋没するのか、うきあがるようになるのか確信がなくなってきた。これについても、非常に勉強になる意見をいただいているのだが、あえて先にまわす。次ぎのネタとしたい。