「チベットのモーツァルト」を読み続けている。本書は、吉本隆明が指摘するようにクリステヴァだの、記号論だのといった部分は、捨ててしまって読むのがよいのだと想う。

- 作者: 中沢新一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/04/10
- メディア: 文庫
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著者のチベット仏教に対する態度に関する批判は後述するにしても、本書で語られているこれらの「生成の力」といった内容は一般に「複雑系」と称せられる領域の言葉でを記述することはできるだろう。特に受胎からはじまるチベット仏教の生理学が素敵だ。ここで記述されている「滴」とか「風」という言葉は、分裂した細胞の塊りであった受精卵から、頭から背骨、尾と続く脊椎が形成されるさまを言っているのではないか。
そしてまた、本書で語られるチベット仏教の教えは、私の浅薄な理解が及ぶ限り日本の密教、禅宗、浄土宗などで語られる内容と全く同じだ。ただ、チベット仏教はあまりに極彩色だ。日本の禅寺のようなワビ、サビではない。この共通性を、仲間に確認してみたい。いま20年ぶりに本書を読んで、チベットまでゆかなくとも仏教の修行はできるのにとつくづく感じる。日本にこそ仏教の伝統は生きている。
それにしても、私は一体本書のどこを読んでいたのだろうか。すくなくとも3回以上は読み直したはずなのに、全く内容が頭に残っていない。当時も今も私はとんちんかんな人間だと自分で疑わざるをえないのは、本書を読んで高校生の私はサンスクリット語の勉強をはじめるとか、断食道場に入るとか、本書で記述されている仏教世界とは違う方向に走り出したことだ。大切なのは、サンスクリットという言葉ではなく仏教修行の呼吸、坐禅であるし、断食ではなく断食道場の隣にあった密教坐禅の阿字観道場であったのに。
まだ途中ではあるが、どうしても鼻につくのは著者の仏教の教えと師に対する感謝と敬意のなさだ。ここまで進んだ人なら、感謝すること、敬意をもつことがどれだけ大事であるかは自然と理解できていなければならないはずなのに。それは、著者が学者であるからだろうか?こういう姿勢で仏教について書くことは「汚染」ではないか。