HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「日本教について」肯定的に考える

山本七平の「日本教」とは、見えない一神教というべき強固な社会的な構造を日本が持っているという指摘だと捉えている。

逆をいえば、日本は正解が示され、それがきちんとした形で(日本人社会の閾値、個々人の忍耐の限界等)示されれば、きちんと変化することができる社会だということではないだろうか?しかも、上から下までのコンセンサスを持って。

これが、言葉の社会同士の対決、あるいは言葉の市民同士の対決だと最後はテロル、暴力、しかも苛烈な暴力に走らざるを得なくなる。

日本国内で「義理と人情」を通そうとすれば、いや、通そうと意志をもたなくとも、どこかで確かに思考停止になってしまっているような見えない限界点を確かに感じる。でも、これは逆を言えばあまりに同一の前提を持つ人々でこの国が構成されているということではないか?

随分以前に世界各地からの青年がひとつの船になるというプロジェクトに参加したが、つくづく思ったのは、日本人同士と外交的な場面とではいわば「テレビのチャンネルを変える」感覚で変えないといけないと気づいた。なんというか、国内向けの顔をもって外交政策はできない、外交政策をきちんと行おうとすれば国内むけのコンセンサスを重視する意思決定はできないと思った。

やはり、究極は言葉の持つ重さなのか、と結論づけそうなところだが、ちと違う。

多分、なんらかの形で西欧とは違う「真理」の重要性を日本人はかなり末端にいたるまで感じる感性があるのではないだろうか?

西欧的な意味での「言葉」、「論理」によららない真理があることをきっと我々は肌身の感覚で知っているのだ。それが、あえていえば日本を異質なものにしているのかもしれない。

ただし、このことは突発的な急展開や、異質ではあるが天才的な発想を抑制してしまう副作用があることは事実であろう。だからこそ以前の日本は寺や村、あるいは職業階層のようにGA的な発想、中西理論の「渓谷」のような「変質」が集積することを可能にする「結界」を結ぶことを許してきたのではないだろうか?

うーん、アマゾンの書評や、はてなのキーワードから検索した他の方のご意見を読んでなんか元気でてきたぞ。