HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

道具と人の進化

さっき、NHKで人間とサルの比較をテーマにした番組をやっていた。それを見ていて昔読んだ渋谷陽一の評論を思い出した。「2001年宇宙の旅」について「この映画は難解ではない。この映画は人と道具との関係を語っている」と断言していた。

まさに人が道具を使い、道具が環境を作り、あたらしい人間の文明を作った歴史を「2001年」は描いている。そして、道具との関わりが人間の次の進化を生んだと描かれたことを考えると、生命の進化と同様の環境と個体と道具の相互作用があるように感じる。発生生物学がコンピューターを使ってDNAの発現を解析するのと同様に、この人と道具の相互作用の歴史はシュミレーション可能だ。

一方、道具は人をスポイルする。ハルとボーマンとのやりとりは、人をスポイルする道具としての究極をしめしている。道具であったものが人工知能にまで至り、もはや環境と化してしまった状況。そこでは、人は道具に対してるあまりに無力になってしまう。

この道具=環境となってしまった状況にスポイルされないためには、時々道具を手放してやることだろう。例えばあえて昔の記憶を使わない、あるいは手をのばせばそこに答えがあっても飛びつかない。あえてそこにある道具を手にとらないということもまた大事だと感じる。

「アンラーニング」という言葉を昔聞いたような気がする。習ったことをあえて忘れるという行為だったと記憶している。えっと、ぐぐってみると...

さすが!

ストレンジアトラクタを避ける工夫というべきか、自分自身をいかに純粋に保つかが大事なような気がする。自分の内側のみを感じるときには、ストレンジアトラクタは消える。不必要な社会との相互作用も消える。そこでのみ感じる自分がある。それこそが必要な自分なのかもしれない。アンラーニングの果てに見出す自分とはどんな自分か?