HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

現象学的思考、カウンセリング、そして、ネットワーク

・中埜肇先生の講義で提出したレポート

→ ハフスタッターの影響が濃い。ニューラルネットワークはさかんにいわれていても、今ほどネットワークが可視化されておらず、インターネットもまだなくコンピューターの性能が非常に限定されていた時代。いまから20年まえの発想。→ 自分とい水槽の中にモナド(単子)のような粒子(概念、言葉の単位)が浮かんでいる。このモナドには枝が出ていて一定の「くっつきやすさ」(適応度?)の傾向をもっていて、一定の共通性をもつ枝としか接続しない。あたかも遺伝子の分子が接続する形をもっているようなものだ。「水槽」に一定の投影がされると、写像に応じて特定の枝をもったモナドが接続する。そして、その一次的に接続したモナドの枝にまた別のモナドが接続する。こうして、例えば投影された写像がコップの写像であれば「コップ」と言う概念のモナドが接続するまでこの運動は続く。逆にこのモナドに、「水」と「飲む」というモナドが接続する。すると、今度は外に向かって「コップをもつ」、「水をいれる」といったモナドが、あるいはモナドの塊が形成され自分という水槽の外部に向かって行動がはじまる。
→こうしたモナドの運動で、認識、判断、運動、行動といったものを説明しようとした。たぶん、感情といったものも身体内部からの写像特定モナドの接続による全体の結合の仕方で説明できると思う。そう、例えば恋愛とかも大きな大きなモナドの塊ができることなのだろう。
→「創発」という言葉は知らなかったが、特定の状況でこうしたモナド全体がつながってしまうことがあることが予想されるというのが一応のレポートの結論だった。
→いまもこの考えが自分の中に残っている。当時心理学の学部に入学し、「客観的な科学」を目指す姿勢に非常に反発していた。主観と客観をどうあつかったらいいのかが、ひとつの問題意識であった。このため、科学的な手法により「主観」という現象が生じる過程を検証できる認識、とくに視覚認識の研究室に入り卒論を書いた。

・グリッドコンピューティングと勃興期の文学

→考えてみれば明治大正期の文学というのは、人とつながる手段だったのかもしれない。宮沢けんじにとっての鉄道が輝いて見えたように、文学はこれまで古典という大きなハブにつながる以外にネットワークを形成する手段がなかった人々に、自分の考えを形成し、記録し、配布可能な形にして、出版経路に載せるというのは、ネットワークの形成を意味していた。もっといえば、自分の問う考えが人の脳につながり、そこで運動を起こし、行動をつくり、また次のネットワークの形成を生むという、成長的グリッドコンピューティングのようなイメージだったのかもしれない。
→いや、これらはあくまで私の夢想に過ぎないが。

・身体ときわ

→自分の思考モデルに戻ろう。大学性のときに考えた「水槽」は脳がその外部と内部のきわであった。しかし、それでいいのだろうか?身体とか外部とかを過程している限り、實は主観と客観をのりこえることはできない。どこまでいっても身体を物質化、外部化してしまている。
→ここで現象学的思考がはじまるのかもしれない。とくに「竹田現象学」の出発点くらいにはたてたように思う。

現象学をめぐるロードマップ

→哲学からと心理学から

・バラバシとクリスト

→バラバシが「新ネットワーク思考」を閉じるにあたって、すべてを包装してしまうクリストのパフォーマンスアートについて語っているのが興味深い。これは現象学的還元の好例とはいえないだろうか?国会議事堂であれ、橋であれ、島であれ、すべて包装してします。これは世界をカッコに入れてしまうことではないだろうか?もちろん、バラバシが意図したのは純粋にネットワークのことで、ネットワーク的な思考においてはいわば包装してしまうように、外観や色や言辞においてさまざまに異なる「ノード」を包装してしまって一定の思考的基礎に基づき包装してしまうことに他ならないということだ。
→しかし、私はここにネットワーク思考の基礎を見る。包装してしまうことがひとつの大前提なのだ。そして、しかも人間の思考自体がネットワークで形成されているのであれば、現象学的な手法がネットワーク思考の基礎石であるとはいえまいか?
→そして、現象学がネットワークの基礎であることを示すことは、その見解の持つべき城の法則のような異常な威力をうすめることにはならないが、以前しめしたネットワーク思考を現代の資本論あるいは、マルサスであるかのような活用に対して「NO」といえる基礎となるのではないだろうか?
→しかし、これは先走りすぎているのかもしれない。いま考えるべきは「包装」してしまうことと概念化と現象学的還元の違いがネットワーク思考においてあるかどうかということだ。
現象学的な操作なのではないかと考えるのは、ネットワーク思考のこうした道具が共通の信憑性の構造だけをとりだしたのもではないかと考えるからだ。現象学的な還元によって得られるものかの確信はいまはないが、一定の条件において自分と人とのつながりがあるということは、誰にも否定できない思考の要素なのではないか?思考そのものがネットワークでできていると言うこと以上に人の思考の道具だてとして、最初の大学のレポートにしめしたように、自分の中に一定の単位をさだめ、この単位と単位のつながりとして、自分の思考がたちあらわれれるように私には観察される。
→概念化という考え方の根本的な定義まで立ち戻る必要があるかもしれない。概念化というとき、自分の体験や行動を写像するという操作を含んでいるように感じる。概念化で問題になるのは、対話が可能である道具だてとしてほんとうに信憑構造を他社と共有しうるのか、対話の道具として言語ゲームを成立させられうるかという検証が常に必要になるのだろう。このため言葉で言葉を定義するしかなく、言葉という体系でのみその言葉のもつ意味という位置が決まる。→言葉というのは、いわばネットワーク思考的に意味が決まると言っても酔いのだろうか?言葉をノードと受とり、意味の定義によるつながりをリンクととる。いや、発話という文章を書く、話す行為においてはじめてリンクとなすべきかもしれない。いずれにせよ、ネットワークが言葉に先行するのではないだろうか?

・意味

人の感じる意味とはネットワークの特定の状態である。

・意味

それって、映画のマトリックスの見え方と現実の見え方に差がないってことじゃん!しかも例のネオの緑のラインみたいな人とかビルとかの見え方ってそのものちゃいますの!!!なんか感動!