HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

宮沢賢治 童話全集 12巻

私の中で、宮沢賢治はなにもできないで終わってしまった弱い人間である印象がながくあった。いろいろなことに手を出しはするが、童話と詩以外でほんとうに人の役にたったことがある人なのか、いつも疑問に思っていた。その一端は、本書を読むことで解消を得た部分もある。

いまただ思っているのは、ファウストも行為をやめたときに救いが訪れたように、宮沢賢治の死もひとつの救いの形であったのではないだろうか、ということだ。

本書の編者でもある宮澤清六の「兄、賢治の一生」という回顧録もほどよく当時の様子を伝えてくれる。清六は、軍隊にも行き、家業の質屋を金物屋に転換するなど、強く商売に向いた人だったのだろう。賢治の文章をぬきがきしている部分の的確かからも清六の知性のあり方も伝わってくるようだ。

賢治の手紙の書き方にもこころを惹かれた。この人には、清六も書いているようにこの人には、なにか生まれつきの寂しさといったものがあったような感じが文章から伝わってくる。この人がブログを書いていて、思いのままにブログを書いて、人ととのつながりがひろがっていったら、もっともっと協力者が生まれていたたら、こんなにさびしいままに人生を終わらなかったかもしれない。あるいは、賢治に寂しさがなければこれだけの童話や詩などを産まなかったかもしれない。

「農民芸術概論綱要」はとくにこれからの世の中で、大事な文章なのではないだろうか?賢治の世にはなかった物質的な豊かさはすでに実現しているが、生活の中に、働くことの中にある芸術というものからは、逆に遠ざかっているように思う。この辺の主張は、エンデの主張ともつながるようだ。しかし、これこそが私は賢治がいまブログにつながっていれば、「羅須地人協会」というネットワークを作り、芸術の普及につとめたのでないかと、疑うひとつの根拠だ。

以前、英文の読解で、大きなアメリカ大陸では芸術家が次々に自殺していく、これをとめるのは、手紙によりネットワークを作ってやることが大事だ、という主旨のエッセーを読まされた。いまの世界もこんなさびしい世界なのかもしれない。

そして、法華経と賢治とのかかわりだ。手紙にも、散文にも、あるいは童話にもこの影響は見え隠れているように思われる。まさに、方便だったのだ。しかし、賢治は対象と一体になりすぎる傾向があったのではないだろうか?ストンと、法華経の精神を宮沢賢治に入れてやることのできる指導者がいたら、実は結果はまったく違っていたのではないだろうか?