HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

価値ってなに?意味ってなに? 〜non multa sed multum〜

偶然とおもえるような、人とのやりとりがすきだ。

今日、午前中営業で出かける途中、電車の中で「オリーブの森で語り合う」という、エンデと、エプラーという政治家、テヒルという演劇芸術家の3人がイタリアで1982年に語り合った記録を読んでいた。

http://www3.plala.or.jp/mig/olive-jp.html

エンデは、いまの政治経済の状況をメリーゴラウンドにたとえ、「どんどん加速していく。ちぎれとぶまで加速していく。誰もおりられない。」といっていた。いまの惨めな現実に足をとられるのでなく、未来に身をおいて語ることはできないかと、資本家たちに提案したエピソードを語っていた。エンデは、資本主義経済が根本的にまちがっていることを、マルクス主義に陥らずにとことんまでつきつめていたように感じる。数量ではかれる価値観の中では、加速するメリーロゴラウンドからおりられない、というのは、実はかなり透徹したアナーキズムだと感じた。

ゲーテヘーゲルニュートン的思考の最後、競争相手の犠牲...

また、同時に感じたのは、この本を確かに私は20年前に読んでいる。それも、かなり入れ込んで読んだはずだ。自分に影響を与えた本どということは残っていても、いま読んでみるとまったく新しい本を読んでいるかのごとく感動にあふれている。正直、泣きながら読んだ。自分が感じていることと呼応する個所にあるたびに、とりはだがたつくらい感動した。たぶん、これまで私がHPOで書いてきたことはほとんどこの本の中に網羅されている。それは、この本より後にかかれた「歴史の終わりと最後の人間」にいたるまで、マルクスからヘーゲルフッサールにいたるまで、そして、市場とべき乗の法則で記述されうる現象、私がこれから生きていくのに多分必要な分量は、この本の中に触れられている。もしかすると、私がこれまで書いてきたことは、この本の内容をすこしづつ思い出してきただけなのかもしれないと感じる。

ここで非常に不思議なのは、HPOがすべてこの本に入ってしまうとしても、いま私がこうしてこの本について書くことが出来るということだ。それでも、「エンデ」と口にするたび、「オリーブの森で語りあう」と書くたびに、HPOの中に「オリーブ..」が含まれてしまう。HPOが「オリーブ..」に含まれているのにもかかわらずだ。この感触がなんとも不思議だと感じていた。

帰ってきて、メールチェックでPCの画面をみたら、はてなアンテナのトップにfinalventさんの記事があった。「フッサールの洞察としての数量化」...記事を読ませていただいてところ、上記の本を読んでまさに感じていたところをずばり書かれていた。(と、感じられた。)

finalventさんがおっしゃっていたのは、このことなのだろうか?


読書というのは、不思議な体験だ。
人の縁というのは、不思議な体験だ。


多読より熟読

言葉はいつも身体に追いつかない

言葉は、世界においつけない

finalventさんとsvnseeedsさんの議論をとても興味深く読ませていただいた。自分なりに「ベルの不等式」を調べたら、「全時空で状態が与えられている」という解釈が可能だという一文に行き当たった。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kairo26.htm

お二方の議論がもしかするとかみ合っていない印象を私がもってしったのは、この一点においてではないだろうか?言葉を言葉としてとらえるのか、全体を全体として捉えるかの立場の差があったように愚考する。

それにしても、↑の「科学の回廊」のEPR相関の解釈は魅惑的だ。ブログをはじめてから、いやその少し前から、ほんとうに「状態」からとびだしたAとBという「粒子」のペアなのではないか、と感じることが多くあった。ほんとうに不思議だ。

「ところで、私の問いかけは、こうでした。確率の命題は、検証できるか? あるいは、反証できるか。いわく、「サイコロを降ったとき、6の目の出る確率pは1/6ではない」とどのように言うことが可能か? すごい無視されてますよね。なぜだか。」

定理が決まれば、全ての可能な命題はおのずと決定される。また、全ての命題の真偽は確定される。そこには、公理系というきわが必ず存在する。

サイコロの目は、ばくちだ。将来にむけての投機だ。これは証明もできないし、反証もできない。サイコロの目がおよぼすきわも論理だけでは定義できない。投機して、きわを定められるのは、人の人生だけだ。

そして、ぼくらはサイコロの目に自分の人生をかけている、常に。この瞬間も。