そもそも、男女の間の愛は根っこが違う二つの木がからみあうように互いを求め合うことにある。言葉を変えれば、勘違いで男女の愛になる。その接点は、きっと性愛のみ。性愛だけじゃないと言っても、それは性愛に対するファンタジー。
例えば、「電車男」。最初の根本である、電車の中の出来事ですら、男側と女側のとらえかたが全然ちがう。だからって、電車男さんとお相手さんが必然的にわかれるというわけじゃない。そんな求め合うもの、とらえ方のすれちがいの中から文学が生まれたり、絵が生まれたりしている。
昨日新幹線の中で「ウェッジ」という雑誌を読んで、中西進先生が、「焔」という絵のことを書いていらっしゃった。普通の女性がただすわっている絵なのに、そこに込められた想いの深さ、業の深さについて語っていらっしゃった。目で見えるものと、表現されたものとの違いだと。
絵、ひとつとっても、ものすごいすれちがいの中で男と女がうごめいている。ファウストも、そんな男と女のすれちがいから至高にいたる。作者であるゲーテからして、80を過ぎて小娘に求婚するほど、すれ違っている。一瞬たりとも、彼女に受け止められると信じられるほど、男と女とでは違う。あまりに違う。