HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

指導者を鍛える「道元禅」の研究

以前、著者の田里亦無先生とか細いご縁があった。しばらく前にご縁が切れてしまった。坐禅は私の中で止まったままだった。12月に入って無性に田里先生のご本を再読したくなり探して読み始めた。

タイトルの通り、経営者が禅を通して自らをいかに「鍛えるか」が書かれている。第一章から「道元禅がわかれば、経営道がつかめる」とあり、さらにその第一節が「『一体・一如』こそが"道"の真髄」とある。至らないことばかりの私だが、それでも最近「主語を自分にしない」ことは心掛けている。話しをするならその相手が今一番欲している言葉を選ぶ。仕事をするなら顧客が一番望んでいることは何かを徹底する。まあ、「選ぶ」「徹底する」などと言っている時点で底がしれているのだが、相手、仕事と「一体」となることが人生の基本だなと。また、理趣経を読んでも、般若心経を唱えても、結局自分がいかに相手と、できることであれば「仏」と一体になるかが重要であると書かれているように今の私には思える。

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いかに「一体」という絶対を禅を通してつかむかを田里先生は懇切丁寧に本書で叙述されている。はっとさせられたのは第四章、「禅思考で経営を活性化する」。組織と個の関係性を図に表していらっしゃる。

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個と仕事

上図において円を組織を表す。(A)図は組織を統一体と考え、個は組織に没入し、仕事を統一体たる組織がするのである。小我を捨てて大我に生きるというのはこの型である。(B)図は組織を場と考え、仕事は個がするのである。そして組織は個の仕事の場にすぎない。(A)図の場合、個は組織と一如にならなければならない。(B)図の場合は個は仕事に一如になるべきである。組織は環境としての対象となる。

そして、道元の思想は後者、(B)図であると。この立場において経営者、指導者の仕事は「組織の中の個の幸福に寄与すること」に尽きると書いていらっしゃる。「道元的には、『人とともに、組織を通じて財貨を有効に働かせて、利益をあげ、人の幸福に寄与すること』となる」と。盛和塾でさんざん「経営者の仕事は社員の物心両面の幸福追求、実現」であると教えていただいてきた。実は、その原点は1983年出版の本書で明確に述べられていることに、自分の大きな大きな不覚を改めて自覚した。

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組織と仕事

この使命が職場にあるかないかで大きく違うのは明確だろう。多くの職場で同僚のひと言ひと言、ちょっとした行動できぃきぃと感情的なきしみをあげる人間関係しか築けていない。田里先生のおっしゃるような「場」としての組織であれば仕事はあっても人間関係のきしみは存在しないだろう。仕事と一如なのだから。

以前から私は禅について書く資格すらないと感じてきていた。それでも、私の仕事の同僚にすこしでも資するところがあれば自分を鍛える糧としたい。

私はここで本書について書くのもはばかられるような状態なので、座禅そのものについてここで書かない。いつか時がいたれば、書くべきことは書くのだろう。

道元禅入門 the art of Dogen's zen - HPO機密日誌


■追記

ちなみに、サイン本でした。田里先生の書をひさしぶりに拝見しました。

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田里先生

「最強の株入門」:知は株式投資なり

先祖の言葉に従って現役で働いている限りは投資にお金と時間をつぎ込むことはすまいと想ってきた。しかし、まわりを見渡すと「知」を確実に投資につなげている方々があまりにたくさんいらっしゃる。ちょっと、勉強してみよう、少しだけ投資してみようという気になっている。

古くは四半世紀前の米国留学中から、数々の企業への投資とリターンを得る機会があった。米国滞在中にYahoo!株はかなり安く買えるネット販売の走りがあったように記憶する。帰国した後も、Googleが株式を公開する時点では十分に同社のポテンシャルには気づいていた。

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私の中では目の前の仕事に対する知識と知恵と情熱が100%で、他のことはあくまで趣味であり、投資につなげるという発想すらなかった。しかし、自分で言うのもおかしいが確実に日本人の90%よりかなり早く次のトレンドを捕まえていたように思える。

本書を読んでテクニカル分析での株価の売買を初めて知った。ローソク足の読み方も、底値、上値を示す株価グラフの読み方も理解した。これって、しかし、経済物理学で分析していた対象が投資家にとっては当たり前の知識だったと。

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もう四捨五入すれば、六十代の私にとってブログ界隈、ウェブ界隈の知を株式投資に生かす最後のタイミングではないかと思えている。実践を含めて勉強してみたい。


■追記

安易なエントリーだったと反省。

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色即是空空即是色: 21 Lessons fot the 21st Century

ユヴァル・ハラリ氏は「サピエンス全史」の頃から人類は「虚構」の上に歴史を築いてきたと主張されてきた。本書において人生の「意味」すらも否定され、人間の自由意志など生化学的プロセスに過ぎないと。そして、この虚構の自由意志こそが人間の苦しみの原点であるとも主張されている。もうまさに仏教そのものであり、「色即是空空即是色」かと。

本書を順番通り読めば歴史学者として人間の文明の変遷をいろいろな角度から的確に分析して行っている。まさに「色」を極めて行って、最後に「空」に至ると。逆に最後の「瞑想」の章から読み始めれば、次の章で「意味」が否定され、以下国際政治、テクノロジーなどなど「色」の世界が苦しみをもたらすプロレス分析として読める。

翻訳者の方のインタビューではまだユダヤ人らしさが随所に感じらながらも、「虚構」を指摘されている。

forbesjapan.com

ハラリ氏にとっては宗教的信念や、道徳を声高に唱えながら、一方で自分の損得で日常を送る人々が精神的な怠惰、人間の狡猾なチャンネル切替装置であると映る。イスラミックステートがフランスの爆撃による死亡者を「天国で生まれかわった」と讃えながら、死に対する報復をテロの形でフランスで行うことは矛盾ではないかと。まさに、人間は精神的怠惰のもとに自分なりの物語を紡いでなんとか生きている、苦しみに苦しみながら。

真実を追究するハラリ氏の姿勢は修道僧や、預言者のような言葉に感じられすらする。それでも、読み切れたのは映画や、SF小説などを上手く「法話」の「方便」として使われているからだ。例えば、ディズニーの「インサイドヘッド」という女の子の内側で働くプロセスをアニメにした作品に着目して自分がいかに「自分会社」の社長ではないかを示している。このアニメ、考え方は私にはとても親しい。

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人間の物語の典型として「バガヴァッド・ギーター」のアルジュナ王子が随所に出てきたが、これもまた懐かしい想いがある。

hidekih.cocolog-nifty.com

更に、人間の文明のひとつの面白くない帰結としてのハクスリーを上げられている。これは橘玲氏の「無理ゲー社会」の帰結と同じかなと。

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他にも民主主義は合理性ではなく感情の問題だとか、アルゴリズムが全てを支配する近未来の可能性など大変興味深かった。読書しながらツイッターでメモをいくつか取っていた。

ただ賢い人であるだけに全てに一貫した説明をしてしまうことが逆に我々凡人からすると解決策たり得ない提言となっている。いや、色即是空空即是色で単純化できない、物語にしてしまうことが危険であることが本書のテーマであることは十分に理解している。それでも、この方のご意見は首肯せざるを得ない。

にしても、改めて心静かな時間、瞑想、坐禅の大切さを気づかされた。

アマンと日本

アマンはいつぞやインドネシアを訪れた時からいつかは行きたいと想ってきた。ちょうどよい本を本屋でみつけて読み始めた。まさか、アマンの成立、歴史に日本人がこんなに関係しているとは知らなかった。

そのアマンの誕生の背後に何があったのか。本書はまず、創業者ゼッカの出自と足跡とを綿密な取材で浮き彫りにしていく。一家の没落、ジャーナリストからホテル業への転身、試行錯誤と衝突。ゼッカの栄光や失敗をアジアの戦後史と絡めて描きながら、「遠い」楽園の原点を浮き彫りにしていく。三浦半島の「ミサキハウス」、京都の俵屋……。まさか、身近な「日本」の中に秘密が隠れていたとは。

アマン伝説 山口由美著: 日本経済新聞

鹿島建設の鹿島昭一氏、デヴィ夫人、EIEインターナショナルの高橋治則氏などなど。スモールラグジュアリーというスタイルに至る道には日本人が多くの影響を与え、関係性があったのだと。バブルと揶揄されがちではあるが、日本の70年代から80年代の「繁栄」はアジアにおいて強い影響力があったことを思い起こさせる。それぞれの人物がアマンの「スタイル」ができる過程とどう関わっていたかは本書を読んでいただきたい。

日本とアマンの関係性でいえば、アマンを実質総業したゼッカ氏はそもそも日本にいた。インドネシアの富裕な家族に産まれたゼッカ氏は、文字通り何不自由なく育った。曾野綾子氏の同級生、名倉延子氏がゼッカ家に嫁いで日本語でエッセー*1を残しているという。その中には、ゼッカ氏がホテルに関わることになるラグジュアリーなスタイルの起源の更に起源ともいうべきゼッカ家のライフスタイルが描かれてたという。

en.wikipedia.org

注目したいのは、若き日のゼッカ氏がタイム誌の記者として1951年から2年間東京ですごしたということ。この時に湘南に別荘を借り、ガールフレンドとすごしていたという経験。著者によればこの外国人向け貸別荘、ミサキハウスの風情がアマンの原点だという。

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ミサキハウス
世界のセレブリゾート“アマン”の原点は三浦半島にあった : 湘南国際村 じゃらん

私はここでどうしても思い出してしまうのが「利休にたずねよ」だ。他作品のネタバレになってしまうが、利休の茶の「わびさび」の原点とは若き放蕩の日々に過ごした愛する女との短い破屋での経験だとこの小説、映画の中で描かれている。男にとって若き日々に女と過ごした経験は一生に影を落とすのかも知れない。

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利休にたずねよ

*2

更に、本書では日本の旅館とアマン、スモールラグジュアリーホテルとの「平行進化」について書かれている。京都の俵屋の女将、佐藤年氏とゼッカ氏の対談が行われていると本書で紹介されている。

ゼッカ 人件費やコスト的なことも含めて、俵屋とアマンダリでは条件がまったく違います。訪れる人も俵屋とアマンダリでは求めるものが違うはずです。ですから単純に比較は出来ないはずです。
佐藤 私も考えてみたのです。どこが似ているだろうかと。似ているとすれば、視覚的なものじゃなく、大袈裟にいえば、客をもてなすということに対する哲学が似ているのだと思います。
ゼッカ そうですね。それぞれの国の伝統文化を大切にしつつも、それを現代の空間のなかでうまく活用し、宿泊客に寛ぎの時間を提供する。このコンセプトが似ているのでしょうね

非常にロマンを感じる。更にここで触れられたゼッカ氏の永年の夢だった京都での展開、「アマンニワ」が「アマン京都」として2019年に開業したと聞く。ぜひ訪ねてみたいリゾートだ。残念ながらこの時点ではゼッカ氏はアマンから離れていた。しかし、なんとゼッカ氏が日本の旅館そのものを日本国内で手がけたのだという。

世界的リゾート「アマン」の創始者、エイドリアン・ゼッカさんが広島県生口島(いくちしま)に建てた日本旅館「Azumi Setoda(アズミ セトダ)」を、東洋文化研究者、アレックス・カーさんが訪ねます。
(中略)
1995年、ゼッカさんと京都の老舗旅館「俵屋」の女将・佐藤年さんが、“もてなしの心”について叡智と哲学を披露し合う奇跡的な対談が実現。その企画をコーディネイトした人こそ、カーさんだったのです。

伝説の「アマン」創始者が瀬戸内の島に建てた知られざる日本旅館(婦人画報) - Yahoo!ニュース

ゼッカ氏、アマンリゾートと日本のおもてなしの歴史は長く深い。いつか実際に辿ってみたい。

*1:本書に出てくるゼッカ名倉延子氏の著書、「江戸っ子八十年 嵐の日々も 凪の日も」を探してみたが見つからなかった。唯一見つかったのは、「芸術新潮」に掲載された「SPEAK LOW 母から娘へ櫛づたえ」という記事のみであった。

*2:実は私は映画は観ていても、小説は未読。「利休にたずねよ」 - HPO機密日誌

南無地獄大菩薩

白隠禅師の日めくりをときおり眺めている。いろいろ浮世の悩みはつきない中、「南無地獄大菩薩」の書が私に迫ってくるように感じた。

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南無地獄大菩薩
白隠「南無地獄大菩薩」とジョン・レノン「イマジン」 - 足立区綾瀬美術館 annex

余談から入るが、なんとこの白隠禅師の「南無地獄大菩薩」がジョン・レノンの「イマジン」の歌詞につながっているのだと。オノ・ヨーコは名家の出なので、禅画や、書に詳しくてもおかしくない。「イマジン」の歌詞のもとはヨーコの詩集のはずだ。

この作品に影響を受けたイギリス生まれのミュージシャンがいます。彼の名はジョン・レノン。(中略)「ぼくにとって最高の詩は俳句だし、最も優れた絵画は禅画だ」とインタビューで答えています。白隠の書画にも強く惹かれるものがあったらしく彼が「南無地獄大菩薩」にインスパイアされてつくったのが、いわずとしれた名曲『イマジン』なのです。

白隠「南無地獄大菩薩」とジョン・レノン「イマジン」 - 足立区綾瀬美術館 annex

賛否両論はあったようだが、そうすると東京オリンピックの開会式で「イマジン」が演奏されたのには根拠があったのかもと。

さて、「南無地獄大菩薩」。日めくりの解説によると、白隠禅師は幼い頃に地獄の話しを聞いて、その恐怖があったからこそ発心されて仏門に入られたと。悩みがあるからこそ、悟りを求める人となれる。悩みが深く、地獄に落ちるしかないような自分だからこそ人生を肯定できるのではないかと最近思う。

少し前に子供をなくして悲嘆に暮れていた。なぜ死んでしまったのか、私がしたことが子供の死につながってのではないか、私が何かをしていれば死なずにすんだのか、本当に苦悩は尽きなかった。そんな中で、知り合いのお坊さんから「お子さんの死を肯定しないさい、『なぜ』と問えば問うほど生きている人達の心をむしばむだけです」という話しをいただいた。どうやったら若くして死んでしまった子供の死を肯定できるのかと、話しだけでは響かなかった。その後、仏教書を読んだりはした。理趣経の十七清浄句の本を読んだりして否定の否定、愛欲すらも肯定につながる話しをおぼろげに理解していた。ふとあるときに、親しい知人と子供の話しをした。その時に初めて、子供の生を肯定することは、自分の生を肯定することなのだと初めて気づいた。子供が生ききったと言い切れる心境に初めてなった。初めて、子供から「お父さん、私の分まで生きて」と言ってもらえているように思えた。

般若心経の「無無明 亦無無明尽」という節をよく思い出す。「無明も無く、また無明が尽きることも無い」、そう無明が尽きることはないと。貪瞋癡、むさぼる心、愛欲の惑う心、怒りの心、人を嫌悪する心、愚痴の心、愚かな心、すべてが尽きることはないのだと。でも、それでいいのだ。人の生き死に、これでもかとつきつけられる厳しい課題、自分がこんなに悩んでいても周囲に理解されない腹立ち、すべては無明であるのだと。しかし、その無明と向き合い、付き合いきることこそが「無無明」なのだと。

先日、NHKで「悲→喜カメ」という番組をやっていた。マイナーな番組で見た人は少ないだろう。メタ認知、自分のおかれた立場を「引いて」見ることで悲劇の主人公であった自分を喜劇に見立てて自分の人生を肯定して生きようという内容であるように私には想えた。私はまさにこの方法こそが「南無地獄大菩薩」であり、「無無明 亦無無明尽」なのではないかと大変浅薄なことは自覚しつつも考える。

www6.nhk.or.jp


まだ、言語化すること自体に無理があったかもしれない。私自身がまだ腑に落ちていないことを書いていて感じた。私の中で人生の否定にこそ肯定するタネがあるのだという心境になったので書いみたいと想っただけ。それでも、死すらも肯定できるかもしれないと想っただけで長く書けなかったブログを再開することができた。人生の困難に再び立ち向かう勇気がうまれた。もっと分かりやすく話せるようになったらまたトライしよう。それこそイマジンの世界平和へつながる道なのかもしれないのだから。

無理ゲー社会:勘違いしていたメリトクラシー

しばらく前に橘玲さんの「無理ゲー社会」を読み終わった。表紙の「才能ある者にとってはユートピア、それ以外にとってはディストピア」が本書のテーマを余すことなく表現している。

本書の中で重要キーワードは「メリトクラシー」だ。たまたま、40年近く前、大学のある教養科目で教育社会学のレポートを書いた時に教授から教わった。その時は、「知的能力が高い人物達が権力を握ることのどこに問題があるのだろう」と考えた。教授のメリトクラシーに対する否定的な言葉の取り扱いに違和感を覚えたほどだった。

メリトクラシー (meritocracy) とは、メリット(merit、「業績、功績」)とクラシー(cracy、ギリシャ語で「支配、統治」を意味するクラトスより)を組み合わせた造語。

メリトクラシー - Wikipedia

本書を読み終えた今、メリトクラシーとは恐ろしい言葉であると感じる。能力あるものが統治権を握る、という一見全く正しいテーゼから抜け落ちてしまうのは、「自分らしく生きたい」と願うところから人々の絶望が始まるということだから。橘玲さん自身が語っている。

 歴史的には、「自分の人生は自分で決める」「すべての人が自分らしく生きられる社会を目指すべきだ」という思想は、1960年代の米国西海岸のヒッピーカルチャーの中から生まれて、10年もたたずに世界中の若者をとりこにしました。これは、キリスト教イスラームの誕生に匹敵する人類史的出来事です。この新しい価値観のもとでは、すべての子供に夢を持たせて、その実現に向かって頑張らせなければならない。でも、「夢なんてない。どうすればいい?」「頑張っても実現できなかったら?」と聞く子供に対して、どんな答えが返せるでしょう。

『無理ゲー社会』橘玲に聞く 「自分らしく生きる」が生んだ絶望:日経ビジネス電子版

ちなみに、メリトクラシーを上手に解決した社会を描いた小説がある。

hpo.hatenablog.com

本書においては、生まれ落ちたところ、いや、生まれ落ちる前からメリトクラシーによる選別がなされている。能力があまり必要ない、しかし社会が成り立つには必須の仕事をする知的に低い層が設定されている。しかし、大脳への制約とソーマと呼ばれる薬を使うことによって階層社会に不満を持たないようにしている。小説が進むにつれて明らかにされるのは、社会的変動、技術革新をも抑制することによって成り立っている社会であることが明らかになる。

しかし、現実の社会においては本書で何度も述べられるように技術革新も、富の分配もエクスポネンシャル、べき分布的に進んでいく。さらに、現在のリベラル全肯定社会においては、生まれ落ちる前からの階層社会は実現できるわけがない。儒教的、保守的な家庭に育った私としては、では「足を知る」で生きていこうとなるのだが、いまの倫理感とはとうていつりあわない。昨今のジョーカー事件などを見るにつけますます解決不能の問題として、メリトクラシーが立ちあがってくる。

news.tbs.co.jp

本書に述べられている非モテセクシュアリティキャピタルの問題も機会があれば反芻したい。本書は数回にわたって読みながら考えるべき課題をつきつけられている。

目玉焼きと山火事:新型コロナウイルス感染症急減に関する仮説

なぜ新型コロナウイルス感染症(以下、コロナとする)が急減したか専門家は説得力のある議論ができていないように思える。私にはダンカン・ワッツの言う通り燃やし方の問題ではなく、燃えやすさ、燃え広がる側の問題であるために「燃え尽きて」しまえばそこで感染がとまるのだと思える。

www.nikkei.com

ダンカン・ワッツの「偶然の科学」は大変示唆に富む本だ。その中でも、特にこのページの記述はまさにコロナ感染そのものではないかと思えた。

ちょっと長いが文字起こしをした。

理由は簡単で、影響がなんらかの感染過程によって広まるとき、結果はそれを引き起こした個人の特性よりもネットワーク全体の積造にずっと大きく左右されるからだ。
森林火災が手に負えないほど激しくなって燃え広がるためには、風や温度や低い湿度や可険物の組み合わせが必要なのとちょうど同じように、爆発的な社会的伝染も影響のネットワークが適切な条件を満たす必要がある。そしてつまるところ、最も重要な条件はひと握りの影響力の強い個人とはまったく関係がない。むしろ、必要数の影響されやすい人々が存在し、この人々がらかの影響されるすい人々に影響を与えるかどうかにかかっている。
必要数が満たされれば、並みの個人でも大きな連鎖を引き起こせるーーー条件がそろっていると、火花さえあれは大規模な森林火災が引き起こされるように。逆に必要数が満たされなければ、最も影響力の強い個人でも小さな連鎖しか引き起こせない。そのため、個人がネットワーク全体でどういう位置にいるかを見極められないかぎり、その人にどれほどの影響力があるかたいしてわからないーーー個人についてどういう測定結果が得られようとも。
大規模な森林火災があったと聞いたとき、われわれは当然ながら、それを起こした火花に何か特なものがあったにちがいないとは思わない。そんなふうに考えるのはもちろんばかげている。しかし、実社会で何か特別が起こったのを見ると、われわれはそれを起こしたのも特別な人物にちがいないという考え方にすぐさま惹かれる。

当然、西浦先生もご意見を求めた。「COVID-19のSuperspreading eventあるいはその他の感染症などの原因一般論に関する話ではない」というご見解だった。ちなみに、このやりとりは感染が猖獗を極めた8月に行われていることには注目されたい。

「燃えやすさ」とはなにか?私のような素人がうんぬんすべきではないが、感染をネットワークとして捉えたときの様々な段階での感染しにくさではないかと考える。一番近いのは宮沢孝幸先生の「目玉焼理論」ではないかと考えている。昨年のうちに一定の感染しやすい層が「燃え尽きる」ことに言及されている。ワクチン接種ももちろん、白身と黄身の「際」(きわ)をより強化する作用があったのだろうと。

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目玉焼理論
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ではなぜ感染の「波」が訪れたのか?株の入れ替わりにより「燃える」要素が変わったからではないかと考えられる。永江一石さんが興味深いグラフを繰り返し提示されている。

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isseki 株
Isseki Nagae/永江一石 💉接種済💉 on Twitter: "11/4 最新発表 日本はデルタ株以外の新しい変異株は発見されておらず、第6波の兆しもありません。 南米のラムダやカッパがこれからくると騒いでいるメディアの皆様へ。南米各国ともそうした変異株はデルタに駆逐されています。デタラメを報道するのはやめましょう。… https://t.co/inY1lNVHc2"

ちなみに、一時話題になったK値による予測はまさに「燃え尽きる」ことを前提とするS字カーブが大前提となっているように私は理解している。なぜならK値とゴンペルツ曲線は数学的にほぼ同じことを示している。

hpo.hatenablog.com

以上、素人考えにすぎないことは自覚している。ただ、ダンカン・ワッツの意見は尊重されるべきではないかと。