基本的なことを知ってるつもりで実行できてなかったことを思い知らされた。
戦略は、経営に対して責任を負える人間がくだす。戦術は、仕事に直接に当たる人間が決定し、実行する。これくらい明確な区分があるだろうか?自分でおごりがあったなと思うのは、自分が両方できてしまう人間だといつのまにか思い込んでいたこと。これが本書を読んで最大の反省。
基本的なことを知ってるつもりで実行できてなかったことを思い知らされた。
戦略は、経営に対して責任を負える人間がくだす。戦術は、仕事に直接に当たる人間が決定し、実行する。これくらい明確な区分があるだろうか?自分でおごりがあったなと思うのは、自分が両方できてしまう人間だといつのまにか思い込んでいたこと。これが本書を読んで最大の反省。
タイトルは「もはや老人ホームはいらない」であるべきでは?筆者は、施設の運営を十分に経験しておられる高齢者の意思、個別性を重視するお立場なので、「老人はいらない」とは一言も主張しておられない。
結論から言えば、高齢者を「介護」すること自体がナンセンスであり、2000年の介護保険導入自体が間違っていると主張しておられる。医療は介護を兼ねることができるが介護は医療を代替することはできない。介護保険は、健康保険の増大を抑止するために導入されたはずなのに医療費は膨張を続け、介護業界も成長を続け、国民の保険は増え続けるばかりであると。民間の介護施設はほぼすべて医療業界のように標準化されておらず、職業としても評価されておらず、失業対策に過ぎないと。医者は尊敬されても、ケアマネージャーは永遠に敬意を払われる職業にはならない。医療では回復を目的とし、QoLの回復がありうるが、介護では維持が目的であり、機能回復はない。希望ももな。介護保険も、民間の介護を扱う施設もやめて、医療に包括されるべきだと。
もうなんとも読み終えて、介護業界に希望はないのだと納得した。
それでも、昨今の高齢者が「尊厳死」的な死を選ぶことには批判的であり、「終の棲家」ではなく高齢者の状況に応じて施設を選ぶべきだというお立場は、プラグマティックな知恵を感じた。「年寄り叱るな、行く道じゃ」とはよく言われるが、自分自身が高齢者になっていくことを考えれば、筆者の立場、主張は自ずと理解されるのかもしれない。しかし、マクロで見るとほぼ確実に国から市町村、地域の持続可能性でいえば厳しい道を突きつけているように思える。
随分以前に予告していた「本を書く!」プロジェクトが先日校了した。
と、自分で確認して唖然としたのは、「そんなに前だったっけ?」ということ。ちょっと長すぎ。
新型コロナウイルス騒ぎの真っ最中はなかなか筆が進まなかったが、休み休み書き続け、脱稿したのは数ヶ月前。それから、体裁だの、写真だのと編集の方と打ち合わせを続けゲラ刷りが先日出てきてからは早かったように感じる。最後の最後のプロの校正の方の仕事は素晴らしかった。文字、漢字、送り仮名などの指摘はもちろん、論理構成への切り込みがすごかった。私が記憶にたどって書いた部分は全部実際の日付を調べ直すことになった。さらに、最後の編集さんとのファクトチェックもすごかった。えっ?そこまで確認するんだ!というくらい突っ込まれまくった。
書名も、分野もここで明かすつもりはないが、私にとって特別な体験であった。卒論等で長い文章であったり、最後の最後までの確認を強いられる経験をしていたのは大きかった。
これ以上出版に関わることはないとは思うが、機会があれば時間をかけてまとめてみたいのは身近な「口承歴史」。日本ですら口承と公式の歴史ではかなり違いがあるのだろう。そうそう、なんとなく古事記と日本書紀が当時の貴族の家系を守るために書かれた歴史書だという説に同意したくなる。
著者が本書で展開し、私がここでこだわっているのは実は口承歴史(oral history)と公的歴史の差なのかもしれない。私がどうしてもこだわってしまい、そこで立ち止まってしまうのは歴史の時間で教えあれる歴史以外に、自分を取り囲む人たちから口で伝えられた歴史があるからかもしれない。
[書評]敗北を抱きしめて Embracing Defeat: HPO:個人的な意見 ココログ版
なにはともあれ、自分が関わった書籍が店頭に並ぶのを見るのがいまから楽しみだ。どれだけマイナーな本であっても・・・。
門外漢なので「楽しく」とまではいかなかったがしばらく前に読んだ。SIRモデルも、ゴンペルツ曲線も出てこないいまから見れば平和な「疫学」の世界かなと。
細菌学でも、ウイルス学でもないので、本書にはDNAもRNAも免疫もマイクロファージも、NK細胞もでてこない。疫病をいかに調査するかについて書かれている。
読んでいてすっと入ってきたのは、私が学んだ80年代の実験心理学系統がそうであったような記述するための統計学にかなりページを割いて解説されていたからかなと。感覚知覚心理学においては「錯視」に関する実験とそれに伴う諸条件の知見が相当に80年代までに蓄積されていた。しかし、それらを統合的に「マッピング」し、「大統一理論」化することはできていなかった。
私は「ヒトの目、驚異の進化」のこの一枚の表に打たれた。ほぼすべての錯視が人間とその先祖の生態における感覚知覚で整理すると統合されてしまうことが示されていたからだ。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150505551/hidekisperson-22/
ここに至るには実験系心理学膨大なコンピューターパワーとAI研究が進むことが逆に人間への回帰を生み出していたように想う。医学等で人間の視覚については膨大な分析が行われていたとはいえ、それらの相互作用、全体としての機能という発想がなければ生きている環境、生態の中での人間の感覚知覚という視点は生まれ得なかった。
同様にして、疫学についても最近、ウイルス単体の研究は膨大に積み重なっていても、それらが「疫病」として人間社会においてどのような挙動を示すのかの大きなギャップがあることを本書を読んで感じた。
とうとう二回目見てきた!多くの方がおっしゃっているように、二回目見てものすごく分かった気になった!「認知」が変わるだけで、こんなにも見え方変わる映画って不思議!
クリストファー・ノーラン監督は、私と同年代の1960年代生まれ。私自身もそうなのだが、映像作品から多くの刺激を受けている。ご本人が認めているように、007はもう街中のかっこいいおじさんくらい当たり前の存在だし、"12 Monkeys"も「映画見る人なら常識」の範囲だと認識している。改めて、随所に"12 Monkeys"の影響を見た。例えば、ウェブなどではヒロインが「キャット」と呼称されているが、映画では「キャサリン・バートン」とノーラン作品の常連のマイケル・ケイン分する「クロスビー」が明確に言っていた。「キャサリン」は"12 Monkeys"のヒロインの名前であり、時間が交錯して展開してく物語の帰結として目の前で恋人が殺されエンディングを迎える。
さらに、本作の「時間の逆行」(実際はエントロピーの減少)は、映画好きだから出てきた発想だと信じる。ここは、ノーラン監督の名前を世界に知らしめた「メメント」と同じだ。「メメント」は映画でしか表現できない作品だ。エントロピーうんぬんは後から出てきた発想だと信じる。でもなければ、時間の順行から逆行への移行が円筒自動ドアのようなものをくぐっただけで達成できるわけがない。映画の中で主人公に「時間逆行」を説明するバーバラが語っているように第三次世界大戦、人類の滅亡クラスのエネルギーが費やされなければあり得ない。よしんば、本来量子レベルの減少を最初に出てきた「弾丸」程度を逆行時間に送り込めたとしても、人間のような生物の時間の逆行させるには地球を砕かなければならないほどの手間とエネルギーが消費されなければならないだろう。「時間逆行」はどんなに物理学者の指導があったとしても、ノーラン監督の中では前に進んだり、逆戻りしたりする一本のフィルムに過ぎない。
A #tenet diagram for better understanding 🤗😩🤡😅 pic.twitter.com/PfmdKqDtsn
— 🇲🇾 S-rank 🌺 (@crystalgdragon2) 2020年9月19日
最初にも書いたように、二回目によくよく「調査」した上で見直すとこんなに物語の印象が変わる作品はこれまで体験したことがなかった。ノーラン監督がインタビューで語っていたようにM.C.エッシャーのだまし絵のように、認知によってまったく絵柄が違って見える。一回目では「えっ?」と思った小さなシーン、ガジェットが二回目では全体でつながって見えた。
そう、最初見た時にこの物語の核心は"12 Monkeys"のように主人公とヒロインの男女の愛がテーマだと思っていた。二回目に見て、男と男の友情の物語なのだとやっとわかった。そもそも、最初のオペラの場面で主人公を助ける逆行弾を使う人物は、ニールだったと。この人物のサックにちゃんとニールの赤い糸と丸い輪がちゃんと出てきている。この場面に戻るために、ニールはわざわざ戻ってきたのだ。
やばい、さっきから泣きそうです。 / “C8H1102N on Twitter: "#tenet Neil my angel❤️ pic.twitter.com/LTvYbM97ys"” https://t.co/xI9AA9Pyw0
— ひでき (@hidekih) 2020年9月20日
そして、キャット・キャサリンの息子のマックス、マクシミリアン、MaximilienからNeilなのだと確信できたのは、ボンベイの映画進行の上の最初の対面のシーン。ダイエットコークではないというのは、Protagonist、無名の男のブラフなのだと気づいた。後で述べるように、ラストシーンもMaximilien = Neilを示唆している。
一回目では、なぜセイター?なぜ未来か過去に向かって書類や金を送れる?と不思議でならなかった。セイターが選ばれたのはスタルクス12で核弾頭探しの仕事をしていたからだと。「記録」としてそれを知っていた未来人が「逆行」タイムカプセルでセイターの名前の入りの契約書を送りつけ、それをセイター見つけた「時」にこの物語は始まった。金が送り込まれたカプセルも、最後の究極兵器も同じカプセルだった。未来から過去の因果を変えられるのはなんとも違和感があるのだが、映画のルールでこれは受け入れざるを得ない。順行し逆行する一本のフィルムのように時間が巻き取られている。「エントロピーの減少」による時間逆行という設定について言えば、そもそも反物質的な存在になっているので、別に自分自身と会わなくとも、順行時間の空気に触れただけでE=MC^2のエネルギー解放になるのでは?そもそも、この映画は平行宇宙論を受け入れ、たまたま全てが上手くいった「世界線」なのだとしか受け止められない。
そして、最終シーン。当初、疑問だったのは、セイターがヴェトナムの豪華ヨットの時点で二人いないか?という部分。これは、この映画がタイムトラベルなのではなくて、順行時間と逆行時間で交叉して作られていると考えることで納得できた。セイターが日本に飛んで言っている間の時間をわざわざその先のセイターが選んで時間の逆行、順行を繰り返しヘリコプターで飛んできていたのだ。だから、「最新」のセイターが死んで死体が隠されても、映画ではイタリアで出てくるセイターが日本から戻ってきたのだと考えればつじつまがある。
ただ、ちょっと不思議なのは豪華ヨットが2週間でベトナムからイタリアに移動できるの?という点。超高速ヨットなのか、あのクラスのヨットを二隻持っていると納得しよう。
で、最後の最後のシーン。「爆弾は爆発しなかった」というたぶんニールのナレーションに重なるマックスとキャサリンで終わる不思議。先ほどのセイターの理屈で言えば、この時間の流れで実はキャサリンが二人存在していることになる。逆行したキャサリンと、何も知らずに主人公から贋作の鑑定依頼を受けるキャサリンだ。
ベトナムのヨットから普通に生活していて名もなき主役、TENETと呼ばれることになる男と会う前のキャノン通りのはずだが、実はこれは以前出てきたキャノン通りとは違う。もしかすると、プリヤがキャサリンを殺そうとする動機は存在してはならないキャサリンが二人存在するからなのかもしれない。そして、もしそうなら、この時点では本来の時間流れのキャサリンは、マックスを自分自分自身に「奪われた」ことになる。この後のヨットの「一緒にローマに行こう」と約束していたのにいないマックスは実は、すでにTENET一派にかくまわれていた可能性が存在する。ということは、この直後から主人公とニールは親子以上の関係を築くのだろう。
テネットの絵を描きました。
— タヌ (@myouga) 2020年9月24日
映画館で!ぜひ!#テネット #TENET pic.twitter.com/i8wWZELsm6
ニールのロバート・パティソンが34歳、主人校ジョン・デヴィッド・ワシントンが36歳なので、登場人物としてもそれくらいの年齢設定だとすれば、マックスが10歳くらいなので、(34−10)/2+10=22歳なので、10年程度主人公とマックスとキャサリンは一緒に暮らし、そこからマックスはひたすら陰に隠れながら時間逆行し続けたことになる。
ああ、ここまで設定が細かくされているのだ改めて想ったのは、一回目ではわからなかったヨットでの日焼け止めこぼし。あれば、女の力でもセイターを滑って落とすために仕掛けていたのだと。時間かせぎと滑りやすさの両面でやっていたのだとやっとわかった。そこまで憎かったのか!
私のヒアリングが今一で、antigonistが「挟撃」作戦のことか?「記録」がposterityと言ってたように聞こえた。この辺はもう一度見る時に確認したい。
思いっきりネタバレなエントリーだが、自分の頭の整理のためにも書かずにはいられなかった。
大変、感激して読んだ。30年前に卒論を似た分野で書いた頃から比べると隔世の感がある。
本書においては、人間の視覚における4つの驚異的な能力について述べられている。
本書の内容については、こちらに素晴らしい書評が載っている。私の手には余るので。
私が卒論でやったのは、本書の中のオオサンショウウオが網膜レベルの処理から対象物の同定が行えるという知見が述べられているが、人間の視覚においても同様の低レベルの動きの検出等の機能があることについてだった。それと、本書の第二章で詳述されている左右2つの目に入る異なる情報がいかに統合されるかについてだ。言うまもなく初歩レベルだ。
私は認知心理学の教室で、資格の知覚を先行した。「クオリア降臨」を読んでいてのけぞったのが、私がやった液晶シャッターとPCのディスプレイを組み合わせて「仮現運動」と「立体視」とごく似た実験を茂木さんがしていたというくだりだ。
茂木健一郎さんとHPOの比較 - HPO機密日誌
私が卒論を書いた時点では、若くしてなくなってしまったDavid Marr博士の計算理論による視覚情報処理の統合的な枠組みの試みがなされている頃だった。
私が卒論で理解できた範囲でいえば、網膜から視野交叉にいたる視神経の神経細胞のミクロの挙動がものの輪郭の検出*2や、動きの検出を行っているという仮説だ。X神経とY細胞というのが視神経にあるのだそうだが、特にY細胞が時間的に遅れて挙動する。この時間的な遅延を用いて、偏微分することができるのではないかというのが、マーの仮説。
複雑系とロバスト性 - HPO機密日誌
その上で、いくつか気づいたことを。
色について、肌の色の見極めができるべく錐状体が霊長類において発達したとある。そして、同時に樹上生活において食物を効率的に取るために果物などの極彩色を見極めるように「調整」されていったのだとわかる。更に視覚の点においても「裸のサル」として進化したと主張するなら、孔雀の羽が求愛行動のために過剰に進化しように我々の視覚、そして体も「過剰」に求愛行動と色の関係において進化してきたのではないだろうか?
人間の視覚の初期レベルからの「未来予測」については、私の頃はJ.J.ギブソン博士の「生態学的心理学」という分野があった。ギブソン博士の頃には同定し得なかったメカニズムが明らかになったからこそ、チャンギージー博士の「大統一理論」が現代において検討されうるのだと思う。なんというか、卒論生のまま研究職についていればこの流れを現在進行型で追えたのだろうという忸怩たる想いがある。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jslk/1/0/1_KJ00009162190/_pdf/-char/ja
昨日観てからTENETのことが頭から離れない。観終わったときには「?」が私の頭の上に飛んでいた。「?」をなんとかしようと、関連するいくつもの作品を観た。結論から言えば、"12 Monkeys"にヒントを得て本作を作成したのだと考える。元から時間の順行、逆行を映画のテーマにしてきたクリストファー・ノーラン監督にすればなにも不思議ではない。
そして、ウェブで調べて読んだブログに"La Jetée"との関連性が指摘されていた。これはいわずもがなの未来から送り込まれる人物についての映画であり、冒頭から自分自身の死を目撃する少年というループが仕組まれている。
"La Jetée"?あれ、これはと?思い出したのは"12 Monkeys"(以下、12と略する)。科学者たちにブルース・ウィルス扮するジェームズ・コールが送り込まれ、キャサリン・ライリーという女性精神科医と世界破滅の謎を解いていく映画。
見ると、TENETと12で共通するキーワードがたくさん。
なによりも"La Jetée"でも、12でも、少年が自分の未来と邂逅するという展開がニールによって暗喩されている。
All encounters in life are reunions after long times apart.#Protagoneil #Tenet pic.twitter.com/Nlkbel8gsM
— ritsu (@ritsssu) 2020年9月18日
TENETのラストで、キャットとprotagonistのこの先を描いてほしいと切に願っていたのだが、なんのことはない、十二分に描かれていたのだと。NeilとはMaximilienの最後の4文字を逆さにした名前だと。感涙!
さて、それでも私の中で回収されていないネタがいくつかある。これから何度か映画館に足を運んでよくよく考えたい。
今日はとにかくマックスとprotagonist、そしてキャットの関係性が理解できてもうもうもう感動。