HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「楽しい疫学」(第4版)

門外漢なので「楽しく」とまではいかなかったがしばらく前に読んだ。SIRモデルも、ゴンペルツ曲線も出てこないいまから見れば平和な「疫学」の世界かなと。

基礎から学ぶ 楽しい疫学 第4版

基礎から学ぶ 楽しい疫学 第4版

細菌学でも、ウイルス学でもないので、本書にはDNAもRNAも免疫もマイクロファージも、NK細胞もでてこない。疫病をいかに調査するかについて書かれている。

読んでいてすっと入ってきたのは、私が学んだ80年代の実験心理学系統がそうであったような記述するための統計学にかなりページを割いて解説されていたからかなと。感覚知覚心理学においては「錯視」に関する実験とそれに伴う諸条件の知見が相当に80年代までに蓄積されていた。しかし、それらを統合的に「マッピング」し、「大統一理論」化することはできていなかった。

私は「ヒトの目、驚異の進化」のこの一枚の表に打たれた。ほぼすべての錯視が人間とその先祖の生態における感覚知覚で整理すると統合されてしまうことが示されていたからだ。

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ここに至るには実験系心理学膨大なコンピューターパワーとAI研究が進むことが逆に人間への回帰を生み出していたように想う。医学等で人間の視覚については膨大な分析が行われていたとはいえ、それらの相互作用、全体としての機能という発想がなければ生きている環境、生態の中での人間の感覚知覚という視点は生まれ得なかった。

同様にして、疫学についても最近、ウイルス単体の研究は膨大に積み重なっていても、それらが「疫病」として人間社会においてどのような挙動を示すのかの大きなギャップがあることを本書を読んで感じた。

TENETの残された謎:おかわり、二杯目!(ネタバレあり、結末あり)

とうとう二回目見てきた!多くの方がおっしゃっているように、二回目見てものすごく分かった気になった!「認知」が変わるだけで、こんなにも見え方変わる映画って不思議!

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クリストファー・ノーラン監督は、私と同年代の1960年代生まれ。私自身もそうなのだが、映像作品から多くの刺激を受けている。ご本人が認めているように、007はもう街中のかっこいいおじさんくらい当たり前の存在だし、"12 Monkeys"も「映画見る人なら常識」の範囲だと認識している。改めて、随所に"12 Monkeys"の影響を見た。例えば、ウェブなどではヒロインが「キャット」と呼称されているが、映画では「キャサリン・バートン」とノーラン作品の常連のマイケル・ケイン分する「クロスビー」が明確に言っていた。「キャサリン」は"12 Monkeys"のヒロインの名前であり、時間が交錯して展開してく物語の帰結として目の前で恋人が殺されエンディングを迎える。

さらに、本作の「時間の逆行」(実際はエントロピーの減少)は、映画好きだから出てきた発想だと信じる。ここは、ノーラン監督の名前を世界に知らしめた「メメント」と同じだ。「メメント」は映画でしか表現できない作品だ。エントロピーうんぬんは後から出てきた発想だと信じる。でもなければ、時間の順行から逆行への移行が円筒自動ドアのようなものをくぐっただけで達成できるわけがない。映画の中で主人公に「時間逆行」を説明するバーバラが語っているように第三次世界大戦、人類の滅亡クラスのエネルギーが費やされなければあり得ない。よしんば、本来量子レベルの減少を最初に出てきた「弾丸」程度を逆行時間に送り込めたとしても、人間のような生物の時間の逆行させるには地球を砕かなければならないほどの手間とエネルギーが消費されなければならないだろう。「時間逆行」はどんなに物理学者の指導があったとしても、ノーラン監督の中では前に進んだり、逆戻りしたりする一本のフィルムに過ぎない。

 

最初にも書いたように、二回目によくよく「調査」した上で見直すとこんなに物語の印象が変わる作品はこれまで体験したことがなかった。ノーラン監督がインタビューで語っていたようにM.C.エッシャーのだまし絵のように、認知によってまったく絵柄が違って見える。一回目では「えっ?」と思った小さなシーン、ガジェットが二回目では全体でつながって見えた。

そう、最初見た時にこの物語の核心は"12 Monkeys"のように主人公とヒロインの男女の愛がテーマだと思っていた。二回目に見て、男と男の友情の物語なのだとやっとわかった。そもそも、最初のオペラの場面で主人公を助ける逆行弾を使う人物は、ニールだったと。この人物のサックにちゃんとニールの赤い糸と丸い輪がちゃんと出てきている。この場面に戻るために、ニールはわざわざ戻ってきたのだ。

 

そして、キャット・キャサリンの息子のマックス、マクシミリアン、MaximilienからNeilなのだと確信できたのは、ボンベイの映画進行の上の最初の対面のシーン。ダイエットコークではないというのは、Protagonist、無名の男のブラフなのだと気づいた。後で述べるように、ラストシーンもMaximilien = Neilを示唆している。

一回目では、なぜセイター?なぜ未来か過去に向かって書類や金を送れる?と不思議でならなかった。セイターが選ばれたのはスタルクス12で核弾頭探しの仕事をしていたからだと。「記録」としてそれを知っていた未来人が「逆行」タイムカプセルでセイターの名前の入りの契約書を送りつけ、それをセイター見つけた「時」にこの物語は始まった。金が送り込まれたカプセルも、最後の究極兵器も同じカプセルだった。未来から過去の因果を変えられるのはなんとも違和感があるのだが、映画のルールでこれは受け入れざるを得ない。順行し逆行する一本のフィルムのように時間が巻き取られている。「エントロピーの減少」による時間逆行という設定について言えば、そもそも反物質的な存在になっているので、別に自分自身と会わなくとも、順行時間の空気に触れただけでE=MC^2のエネルギー解放になるのでは?そもそも、この映画は平行宇宙論を受け入れ、たまたま全てが上手くいった「世界線」なのだとしか受け止められない。

 そして、最終シーン。当初、疑問だったのは、セイターがヴェトナムの豪華ヨットの時点で二人いないか?という部分。これは、この映画がタイムトラベルなのではなくて、順行時間と逆行時間で交叉して作られていると考えることで納得できた。セイターが日本に飛んで言っている間の時間をわざわざその先のセイターが選んで時間の逆行、順行を繰り返しヘリコプターで飛んできていたのだ。だから、「最新」のセイターが死んで死体が隠されても、映画ではイタリアで出てくるセイターが日本から戻ってきたのだと考えればつじつまがある。

ただ、ちょっと不思議なのは豪華ヨットが2週間でベトナムからイタリアに移動できるの?という点。超高速ヨットなのか、あのクラスのヨットを二隻持っていると納得しよう。
で、最後の最後のシーン。「爆弾は爆発しなかった」というたぶんニールのナレーションに重なるマックスとキャサリンで終わる不思議。先ほどのセイターの理屈で言えば、この時間の流れで実はキャサリンが二人存在していることになる。逆行したキャサリンと、何も知らずに主人公から贋作の鑑定依頼を受けるキャサリンだ。

ベトナムのヨットから普通に生活していて名もなき主役、TENETと呼ばれることになる男と会う前のキャノン通りのはずだが、実はこれは以前出てきたキャノン通りとは違う。もしかすると、プリヤがキャサリンを殺そうとする動機は存在してはならないキャサリンが二人存在するからなのかもしれない。そして、もしそうなら、この時点では本来の時間流れのキャサリンは、マックスを自分自分自身に「奪われた」ことになる。この後のヨットの「一緒にローマに行こう」と約束していたのにいないマックスは実は、すでにTENET一派にかくまわれていた可能性が存在する。ということは、この直後から主人公とニールは親子以上の関係を築くのだろう。

ニールのロバート・パティソンが34歳、主人校ジョン・デヴィッド・ワシントンが36歳なので、登場人物としてもそれくらいの年齢設定だとすれば、マックスが10歳くらいなので、(34−10)/2+10=22歳なので、10年程度主人公とマックスとキャサリンは一緒に暮らし、そこからマックスはひたすら陰に隠れながら時間逆行し続けたことになる。

ああ、ここまで設定が細かくされているのだ改めて想ったのは、一回目ではわからなかったヨットでの日焼け止めこぼし。あれば、女の力でもセイターを滑って落とすために仕掛けていたのだと。時間かせぎと滑りやすさの両面でやっていたのだとやっとわかった。そこまで憎かったのか!

私のヒアリングが今一で、antigonistが「挟撃」作戦のことか?「記録」がposterityと言ってたように聞こえた。この辺はもう一度見る時に確認したい。

思いっきりネタバレなエントリーだが、自分の頭の整理のためにも書かずにはいられなかった。

 

「ヒトの目、驚異の進化」読了

大変、感激して読んだ。30年前に卒論を似た分野で書いた頃から比べると隔世の感がある。

本書においては、人間の視覚における4つの驚異的な能力について述べられている。

  1. ヒトの互いの肌の色の微妙な違い、変化を読み取る色覚
  2. ヒトの両眼視。他の多くの動物と違い2つの目がほぼ同じ方向を向いている理由についてとその統合的な視覚を生み出す能力。
  3. ヒトの錯視の「大統一理論」の可能性について。人間が動的な環境の中で初期の視覚処理レベルからの「未来」を予測する能力。
  4. ヒトの文字の「音素」ともいうべきトポロジー的な形態要素の共通性について。

本書の内容については、こちらに素晴らしい書評が載っている。私の手には余るので。

honz.jp

私が卒論でやったのは、本書の中のオオサンショウウオが網膜レベルの処理から対象物の同定が行えるという知見が述べられているが、人間の視覚においても同様の低レベルの動きの検出等の機能があることについてだった。それと、本書の第二章で詳述されている左右2つの目に入る異なる情報がいかに統合されるかについてだ。言うまもなく初歩レベルだ。

私は認知心理学の教室で、資格の知覚を先行した。「クオリア降臨」を読んでいてのけぞったのが、私がやった液晶シャッターとPCのディスプレイを組み合わせて「仮現運動」と「立体視」とごく似た実験を茂木さんがしていたというくだりだ。

茂木健一郎さんとHPOの比較 - HPO機密日誌

私が卒論を書いた時点では、若くしてなくなってしまったDavid Marr博士の計算理論による視覚情報処理の統合的な枠組みの試みがなされている頃だった。

私が卒論で理解できた範囲でいえば、網膜から視野交叉にいたる視神経の神経細胞のミクロの挙動がものの輪郭の検出*2や、動きの検出を行っているという仮説だ。X神経とY細胞というのが視神経にあるのだそうだが、特にY細胞が時間的に遅れて挙動する。この時間的な遅延を用いて、偏微分することができるのではないかというのが、マーの仮説。

複雑系とロバスト性 - HPO機密日誌

その上で、いくつか気づいたことを。

色について、肌の色の見極めができるべく錐状体が霊長類において発達したとある。そして、同時に樹上生活において食物を効率的に取るために果物などの極彩色を見極めるように「調整」されていったのだとわかる。更に視覚の点においても「裸のサル」として進化したと主張するなら、孔雀の羽が求愛行動のために過剰に進化しように我々の視覚、そして体も「過剰」に求愛行動と色の関係において進化してきたのではないだろうか?

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人間の視覚の初期レベルからの「未来予測」については、私の頃はJ.J.ギブソン博士の「生態学的心理学」という分野があった。ギブソン博士の頃には同定し得なかったメカニズムが明らかになったからこそ、チャンギジー博士の「大統一理論」が現代において検討されうるのだと思う。なんというか、卒論生のまま研究職についていればこの流れを現在進行型で追えたのだろうという忸怩たる想いがある。

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https://www.jstage.jst.go.jp/article/jslk/1/0/1_KJ00009162190/_pdf/-char/ja

著者のマーク・チャンギジ博士のツイッターアカウントも見つけた。よくよく勉強していきたい。五十の手習いかな。

twitter.com

TENET ≒ 12Monkeys 仮説(思いっきりネタバレあり)

昨日観てからTENETのことが頭から離れない。観終わったときには「?」が私の頭の上に飛んでいた。「?」をなんとかしようと、関連するいくつもの作品を観た。結論から言えば、"12 Monkeys"にヒントを得て本作を作成したのだと考える。元から時間の順行、逆行を映画のテーマにしてきたクリストファー・ノーラン監督にすればなにも不思議ではない。

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そして、ウェブで調べて読んだブログに"La Jetée"との関連性が指摘されていた。これはいわずもがなの未来から送り込まれる人物についての映画であり、冒頭から自分自身の死を目撃する少年というループが仕組まれている。

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"La Jetée"?あれ、これはと?思い出したのは"12 Monkeys"(以下、12と略する)。科学者たちにブルース・ウィルス扮するジェームズ・コールが送り込まれ、キャサリン・ライリーという女性精神科医と世界破滅の謎を解いていく映画。

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見ると、TENETと12で共通するキーワードがたくさん。

  • 破滅的な未来から過去改変のために人(もの)が送り込まれる
  • 過去にそれらを送り込む未来の科学者たちの存在
  • 12のキャサリーンとTENETのキャット(キャサリンの愛称)
  • 電話の伝言による未来との「通信」

なによりも"La Jetée"でも、12でも、少年が自分の未来と邂逅するという展開がニールによって暗喩されている。

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TENETのラストで、キャットとprotagonistのこの先を描いてほしいと切に願っていたのだが、なんのことはない、十二分に描かれていたのだと。NeilとはMaximilienの最後の4文字を逆さにした名前だと。感涙!

さて、それでも私の中で回収されていないネタがいくつかある。これから何度か映画館に足を運んでよくよく考えたい。

  • TENET側へヒントとなる壁や、銃弾を送ったのは誰?自殺した科学者?
  • セイトーが未来から金を受け取っているように見える。どうやって?過去から未来へとメッセージを送ることはまだ理解できるとは言え、なぜ未来から過去へ?秘密都市で爆発事故を起こしたプルトニウム241のカプセルにすでに指示があった???
  • プルトニウム241」だと思って運んでいた勢力は誰?セイトー側ではなく、TENET側でもなく、プリヤ側でもない?国家的な勢力だとすれば、なぜあきらかに放射性物質でないものを「プルトニウム241」だとして運ぶのか?
  • ヴェトナムという明らかにオペラハウスよりも前でセイターが死んでいるとすれば、時間軸が改変されてないかと?protagonistの時間軸、主観がすべてでよいのか?されに言えば、ほとんどの場合先先の時間を読み取って行動していたセイトーがなぜ最後の最後でキャットに気を許したのか?
  • どうしても最後のTENET作戦、ブルーとレッドの戦闘が解せない。セイターの「軍団」との戦闘なので、両軍ともに順行チーム、逆行チームがあるのはわかるのだが?うーん?
  • 秘密都市に埋められようとする「アルゴリズム」がどの時点で作動不可能になったのか、どうもわからない。主観時間とはいえキャットがセイトーを殺す方が先に見えない?

今日はとにかくマックスとprotagonist、そしてキャットの関係性が理解できてもうもうもう感動。

TENET (多少のネタバレ)

見てきた。もうアクション、サウンド、道具だて、申し分なかった。IMAXで見たので迫力満点でストレス解消まくり!

まあ、でも、映画の中の時間の描き方に認識がついていかない。「考えるな、感じろ」と言われても、認知的不協和が止まらない。

wwws.warnerbros.co.jp

映画の中で、通常の時間の流れと逆行する時間の両方が描かれる。というか、混在している。見終わった後、帰る途中ですれ違う方々が通常の時間の流れなのか、逆行している時間の流れなのか錯覚しそうになった。

混乱したままウェブで検索して出てきたのはこのサイト。事前にこれくらいは見てから行くのが良いのかも。

theriver.jp

とくに、このラテン語の回文はすごい!欧米のインテリはこれを知ってて映画を見るのだろうか?

SATOR
AREPO
TENET
OPERA
ROTAS

にしても、まだまだ頭の中は「?」だらけ。たぶん、もう二、三回は見ないと納得行かない!

まんがでわかるカミュ「ペスト」

以前からカミュの「ペスト」がコロナ禍で話題になっているのは知っていたが、難解だろうと「食わず嫌い」をしていた。最近、また本屋に足を運ぶようになり見つけたのが本書。

まんがでわかるカミュ『ペスト』

まんがでわかるカミュ『ペスト』

  • 発売日: 2020/07/28
  • メディア: 単行本

とっても反省した。

感染症の大流行が起こったときに支配的になる恐怖、絶望、強権、狂信、利害などを見事に描いていることが伝わった。「感染症と戦う唯一の武器、それが誠実さ」というセリフにはしびれた。私は全く人のことは言えないが、今回の新型コロナウイルスの蔓延で人は恐怖や、怒り、欲望の前では冷静な判断はもちろん本来の自分の力を全く発揮できなくなるのだと知った。仏教の貪瞋痴を離れよという教えは、いついかなる時代においても真実であると。人の心はあまりに脆い。恐怖の前では、寛容さを忘れてしまう。中でもこれだけ子供たちの人権が侵害されているにも関わらず、「人権は普遍的だ」と主張する方々、あるいはユニセフなどからのアクションがないのが私には理解できない。じゃあ、お前はと言われるだろうから予め明記しておけば、小さな金額だが、私はこの前後で学校等子供の学ぶ機会を増やすためになにがしかの寄付を起こっている。これからもしていくつもりだ。

まんがなので完全には伝われないが、ペストによってこの街に分断が生まれたことが描かれる。まさにこれが今後起こることなのだろうと考える。検査シーヤ派、スンナ派など日本語のツイッター界隈等でも議論はかまびすしい。感染者に対する非難、不寛容さが発揮されている。ましてや、米国や欧州、アジアにおいても新型コロナウイルス禍がきっかけとなったデモ活動、抗議活動が続いている。ああ、日本の航空機におけるマスク着用の議論もあった。

twitter.com

新型コロナウイルス騒動により経済的な問題や、自粛による健康問題が生じ、大変なことになるなとは予測していたが、まさか感染者が日本においてこれだけ迫害される状況になるとは考えてもみなかった。

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「私達の社会は死刑によって支えられている」などもっと「ペスト」から汲み取るべき学びはたくさんある。機会があれば、原作にも挑戦したい。そうそう、中学の頃に十分に理解できなかった「異邦人」も。

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1963/07/02
  • メディア: 文庫

「ファクトフルネス」が指摘するデータに基づいた冷静な判断の重要性

以前から周囲に統計は大事だ、統計は勉強しておこう、判断の基本には数字をベースにしようと呼びかけてきた。しかし、ここまで徹底しては考えていなかった。

もう解説は行き届いているのだと思うので、一般論は書かない。今のコロナ騒動の中で注目したのは2014年の西アフリカでのエボラの現場の話しだ。作者は医師であ、しかも感染症対策の最前線で医療にあたっていたらっしゃった。

世界保健機関(WHO)とアメリカ疾病予防管理センター(CDC)が公表していた「感染の疑いのある人」のグラフは、かなりあやふやな数字が基になっていた。「感染の疑い」とは感染が確認されていないということだ。元データはとにかく問題が多かった。たとえば、ある時点でエボラの疑いありとされ、結局エボラ以外の病気で亡くなっていたことがわかってもまだ、「感染の疑いのある人」として数えられていた。エボラへの恐怖が増すにつれ、誰もが疑わしく見えてきて、「感染の疑いのある人」の数もますます増えた。エボラへの対処が忙しくなると、日常的な医療はおろそかになり、普通の病気の治療が追い付かず、エボラ以外の原因で亡くなる人がどんどん増えていった。

(中略)進捗を測れなければ、自分たちの対策が効いているのかどうかわからない。だからわたしは、リベリアの厚生省に着くとすぐに、感染が確認された人の数を聞き出して、全体像をつかもうとした。血液サンプルは別々の4つの研究室に送られていて、それぞれの研究室の記録はエクセルに乱雑に打ち込まれていた。しかし、まだ4カ所の数字は集計されていないことが、その日のうちにわかった。その頃、リベリアには数百人もの医療関係者が世界中から集まり、ソフトウェアの開発者は役にも立たないエボラアプリを開発し続けていた(開発者はアプリという「トンカチ」で、エボラという「くぎ」を必死に叩こうとしていた)。しかし、そうした対策が効いているかどうかを測っている人はいなかった。許可を得たあとで、ストックホルムにいるオーラに4つのエクセルの表を送った。オーラはその表を整理して、手作業で集計した。そこで奇妙なことを発見したオーラは、もう一度同じ手順を繰り返して間違いがないかを確かめた。オーラは間違っていなかった。危機が差し迫っていると感じたら、最初にやるべきなのはオオカミが来たと叫ぶことではなく、データを整理することだ。

誰もが驚いたことに、集計されたデータを見ると、感染が確認された人の数は2週間前にピークを打ち、それ以降は減っていた。逆に、感染の疑いのある人の数は増えていた。一方、現場ではリベリアの人たちの習慣を変えることに成功し、人々は必要のない接触を避けるようになっていた。握手もハグもしなくなっていたのだ。生活習慣の変化に加えて、店舗、公共の建物、救急車、病院、葬儀場、それ以外のあらゆる場所で衛生管理を徹底したことの効き目が出始めていた。対策は効いていた。でも、オーラがその表を送ってくれるまで、誰もそれに気づいていなかった。わたくしたちは明るいニュースに喜び、仕事に戻った。対策が功を奏していることを知って、ますますがんばろうと背中を押されたのだ。

少少長いが、まさに今の現状と重なるので引用させていただいた。過剰に恐れるのではなく、正しく恐れることが肝要なのだと。マスメディアとウェブの発達した今だからこそ起こるインフォデミクス、感染症怖さで検査シーヤ派絶対主義と化し過剰な検査を行って起こるケースでミックスは今回の新型コロナがデビューではないと。

2009年には、豚インフルエンザが流行した。その年の最初の数カ月だけで、何千人もの人が亡くなった。どのメディアも2週間にわたって、豚インフルエンザを報じ続けた。しかし、2014年のエボラ出血熱と違い、豚インフルエンザの感染者は倍増しなかった。それどころか、感染者のグラフは直線にすらならなかった。感染情報が初めて報じられたときは、とても危険であるかのように思われたが、データを見ればそうではないことは自明だった。

にもかかわらず、メディアは数週間にわたって危機感を煽り続けた。呆れ果てたわたしは、データを見てみることにした。報道される回数に比べ、実際の死亡者数はどうなっているか。まず、ある2週間のあいだに、3人が豚インフルエンザで亡くなった。一方、グーグルで関連ニュースを索してみると、同じ期間で5万3442件の記事がヒットした。ひとつの死につき、8176件の記事が書かれたことになる。

さらにわたしは、同じ2週間のあいだに、結核で亡くなった人も計算した。結果は約6万3066人。このうちのほとんどはレベル1と2の国の人だった。近年、結核は治る病気になったが、レベル1や2の国ではいまだに死亡する人が多い。豚インフルエンザと同じく、結核感染症であり、細菌が薬への耐性を持てば、レベル4の国でも多くの人が亡くなるだろう。にもかかわらず、結核の死亡者ひとりに対して、ニュース記事はその10分の1しか書かれていない。つまり、豚インフルエンザによる死は、同じくらい悲惨な結核による死に比べて、8万2000倍の注目を浴びていた。

正しく恐れるためには、謙虚にデータを向き合うことだと改めて。

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ネタバレは避けたいが、作者のハンス・ロリング氏は身をもってこの大切さを示してくださった。遺志をつぐオーラさんとアンナさん、そしてギャップマインダー財団を心から応援した。

www.gapminder.org

引用ばかりのエントリーで申し訳ない。あとでもう少し整理したい。