HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

モンゴルの歴史

ウランバートルで話しを聞いていると、とても景気が悪いという。ほんの数年前までは、飛ぶ鳥を落とす勢いというか、プロジェクトが目白おしだったらしい。この2年あまり、中国への資源の輸出がかなり停滞しているのが、不景気の原因だと言っていた。やはり、中国の経済指標は相当に怪しい。

中国にも、「まともな統計」としてある程度信用できる指標がある。貨物輸送量、電力消費量、銀行融資残高の3つだ。

(中略)

李克強指数」といわれるこれら3つの指標を正しいとして、GDP統計を算出した調査結果がある。それによれば、'15年のGDP成長率は2・8%。中国が発表した6・9%増の半分以下だ。

(中略)

それは、輸入統計だ。中国の輸入は相手国から見れば輸出にあたり、その値は各国が公式に発表しているのだから、輸入統計は誤魔化すことができない。

(中略)

ではそこに、マイナス15%という中国の輸入伸び率を当てはめるとどうなるか。導き出されたGDP成長率は、驚くべき数値になった。

「マイナス3%成長」

これが私の試算した、中国の「本当のGDP成長率」だ。

衝撃データ入手!大嘘つき中国のGDP6.9%増「本当はマイナス3%」だった 「チャイナリスク」に備えよ | ドクターZは知っている | 現代ビジネス [講談社]

というよりも、海に面しておらず、資源はあっても、中国、ソ連を通らなければ輸出できないお国柄というのはなかなか難しい。

モンゴルの歴史博物館を訪ねた時にも、それを感じた。モンゴルの人々は、遊牧の民であるにも関わらず独自の文字、鐙や鏑矢などの高い戦闘技術など、高い文化を築いていきたことがよくわかる。

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1917年、ロシア革命により帝政ロシアが崩壊すると、中華民国外蒙古の自治撤廃をもくろみ、1914年以降から設置している庫倫都護使に着任した陳毅によって、『外蒙古自治撤回の六十四箇条』がモンゴル支配層に用意されていたが、これより先に安福派の段祺瑞の部下である徐樹錚がフレー(庫倫、ウルガ)に入り、ボグド・ハーンの宮殿を武装兵士で包囲し、自治返上を迫った。これらに伴い1919年11月、中華民国大総統令によって外蒙古自治撤廃が公表され、翌年(1920年)1月2日にモンゴル人の目の前で自治撤廃の式典が執り行われた。これにより、外モンゴルのボグド・ハーン政権は一旦消滅する。

モンゴルの歴史 - Wikipedia

どうしても、地政学的にソ連=ロシアと中国の間に挟まれている悲劇がある。人民共和国の前後でも、歴史博物館で聞いた話しでは、11月革命が終わったソ連からも、辛亥革命の後の中国からも、それぞれ攻め込まれ、あるいは国内の富裕層、仏教の弾圧があり、悲劇的な歴史であったと聞いた。どさくさにまぎれて、領土的野心を常に追い求める中国はやはり恐ろしい。

まして、清朝の終わりから留め置かれてしまった内蒙古では、言語の弾圧すら行われている。モンゴルでも、内蒙古から文化をなんとか保つために留学生が当たり前にきているのだと聞いた。

いずれにせよ、また行きたい国になってしまった。