HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

セクハラの矛盾

刑法にふれるような犯罪を除けば、相手に対して性的な魅力をアピールすることは人間として大前提ではないのだろうか?生物の多くは生殖に莫大なエネルギーをかける。そりゃ、そうだ、その個体の、その種の最大の使命なのだから。「使命」とは「命の使い方」であり、性的な魅力の発揮は命の輝きそのものだ。身近な男女に「お互いに性的な魅力がなければ、お互いにアピールしあえなくなったら困るでしょ?」とよく聞いてみるが、みな「はい」と答えてくれる。「性」のアピールは生物として絶対必要なのだ。

hpo.hatenablog.com*1

性的な魅力がいかに力強いか?上野千鶴子の「セクシィギャル」における広告における性的な魅力の活用の分析を取り上げるまでもなく、明示的であれ、暗示的であれ、世間は「性」の刺激に満ちている。

hidekih.cocolog-nifty.com

そもそも、好もしい男性的、女性的魅力を過剰に享受することを「ポルノ」と呼ぶなら、人間の文化史において積み上がった「ポルノ」を活用すれば現在進行形で「ポルノグラフィー」を生産し続ける必要はない。それでも、ネット時代を迎えても拡大生産されている。このこと自体がそもそも、「交配可能性」、性的魅力が常に「今」存在しなければならないことを示している。

翻って、セクハラ問題だが、男女ともに、あるいは他の形態であっても、相手を魅了するようなみなり、しぐさ、言葉、性的規範に基づく行動など、人のありとあらゆる「生」は「性」いろどりを強調するようにできている。これに対して関心を示さざるを得ない。欲望を相手に感じるように仕向けているのだから、そこから目をそむけることはできない。あるいは、ありとあらゆる広告に潜む「性」の要素は排除できない。

性の問題は、ウーマンリブなどのムーブメントを振り返るまでもなく、できるだけおおらかに語られるべきであり、受容されるべきだと私は信じる。

女性よ、男性よ、強くあれ、美しくあれ、セクシーであれと。

*1:前回日和ってしまったので、本エントリーはリベンジと言える。