HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

命の値段

93年、米国に留学していた時、Main Land Chana、中国本土からの留学生がちらほらいた。中国では命の値段が安かったと感じることが多々あった。一生懸命、本当に文字通り命がけで学び、働き、ソーシャライズしているのが伝わる人達だった。でも、どこかでなにかの心のしこりを感じた。私の側の偏見であった危険性はいなめないが、どこか「自分はどうなってもいい」と感じられる言動があったように記憶する。いつかどこかで、自分のせいではまったくない決定により、自分が抹殺される、そこまでいかなくとも、困難な状態に直面しかねないという諦念を感じた。ああ、日本はこれからどうなっていくのだろう、このように命の値段が安くなり、人々は誇りを失っていくのかと強く感じた。

あれから25年、いまの中国人は自信に満ちあふれているように思える。個人的な視点にすぎないが、IoT関係で避けては通れないはずのIFTTTのサービスに日本の企業は一社もない。先日始まったハングアウトチャットのスケジュール管理、クラウド管理、プロジェクト管理が会話で行えるボットの提供会社にこれまた日本の社名はない。

www.mag2.com

ifttt.com

gsuite.google.com

いまは、日本の命の方が命の値段が安くなってしまった。やはり、「((日本の総産額 ー 対外負債) + 予想GDPの現在価値) ÷ 総人口」に命の値段は比例すると私には思える。命と命を比較することはできないが、その人自身が自覚している命の値段は確かに存在する。経済的、技術的に立ち後れるということは、結果として国民の命の値段をさげてしまうことなのだとしみじみ感じる。もちろん、留学していたころから、「たそがれの日本で、逆ばりをしてほんの一隅でも繁栄を築き、人々の幸せに貢献する」という指名は変わらない。米国にいた時ですら、何社かからお声がけはいただき、米国で仕事をすることも考えた。しかし、都内で仕事をしていた時と同じく、先端的な職場では私のようなものなどかすんでしまうだろうと、ふるさとに帰ってこそ自分が人様のお役に立てる場所があると信じて、断って帰ってきた。それから、何度挫折し、何度希望を失い、何度使命を忘れたかわからないが、いま私立っているこの場所からみれば、あの時からの本の少しでも命の値段をあげるという想いは変わらない。

と、想っていたら、えらいディストピアなニュースが中国から。

news.yahoo.co.jp

真剣に国家自体が個人個人の命の値段を決めようというのだ。人権なぞえどらごとだとうそぶく私ですら戦慄する。

hpo.hatenablog.com

また、しつこいようだが、ディストピア到来の恐怖を描いた"Person of Interest"を思い出させられる。

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