めずらしく自分のツイートが多くの人の関心を引いたらしい。
父(当時小学生)から戦時中の話を直接聞いたが、その時代はその時代なりに喜びも悲しみもあったと語っていた。むしろ、六十年安保以降の革新過激化の時代の方が国が転覆しそうで恐ろしかったと話していた。 / “軍艦スケッチ事件から見る『こ…” https://t.co/poJaiUiQPM
— ひでき (@hidekih) 2017年11月4日
はてぶ出ないので、コメントがもらえないのがつらい。共感されてるのか、反感を受けたいるのかわからないから。
父は、小学生としての太平洋戦争の五年間を体験した。学級委員長をしていた父は、クラスでマラソンしていて戦勝祈願で近くの寺にみんなで行き、先生からひどく叱られたなど、懐かしげに戦時中の話しをしていた。
青春時代には三木清にはまったと言っていた。
三木が投獄されたのは治安維持法違反であるから戦後存命であれば、それだけで戦後左翼の英雄となり得る可能性はあった[20]。
三木清 - Wikipedia
引っ越しをした時に古ぼけたハードカバーの「人生論ノート」を見つけた。都内で高校に通ってた父は、セクトたか、パルタイだか知らないが、左翼活動家と接触したとも話したことがある。父は、「若いうちに共産主義に興味を持たないヤツは鈍いが、大人になっても共産主義一辺倒なヤツはバカだ」と言っていた。
そんな父ですら、六十年安保闘争運動を見ていて「国が覆るかと恐怖心を覚えた」と総括してした。多くは語らなかったが、戦中の日本国民全体の覚悟が戦後正反対に否定され、米国支配下のウォーギルティプログラムなどで、左派が勢いづいた流れはよく体験していた。その流れの中で、「国が覆る、共産国家となる、ソ連、中国と接近する」としか思えなかったらしい。
仕事をしてから以降の父は保守そのものだった。渡部昇一が大好きだし、某女性国会議員を地元に招いて講演会を開いたりしていた。戦争で焦土となっても国そのものが覆ることはなかったが、過激化した左翼運動ほど怖いものはないと身にしみたのだろう。
まあ、そんな背景がこの一言にはあった。