HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

偶然と必然

転載、その3。

偶然と必然


彼女との出会いは、まだ人を好きになるということがどういうことなのかを知る前だった。それは、自分達の「今日」が「昨日」になり、そして「昨日」が「記憶」や「過去」になるということが理解できる前、いわば永遠の「今日」に生きている子供時代の出会いだった。そして、たまたま同じ場所にいたという偶然のできごとが、彼女でなければならないという必然へ変わっていくための時間は十分すぎるほどあった。


彼女を思い出すとき、必ずあるイメージがよみがえる。髪をおさげにして、学校の制服を着た彼女の姿だ。それは、今でも彼女を思い出すたびに、ぼくのなかで鮮烈によみがえってくる大切なイメージだ。赤いスカーフをさげた、セーラー服の彼女は、いつも通った公園の緑を背に立っている。いつでも、彼女はまっすぐにものをみる。ぼくのなかの思い出のイメージでも、両手を握り締め一心に前を向いている。それは、今でも変わらない。


正確に彼女といつあったのかは、幼い記憶のなかにまぎれてもはや分別が不可能になっている。ただ、私立の新設の小学校で、各学年に1クラスしかなかったために、こじんまりした家族的な雰囲気が全体に漂っていたので、同じ方向に帰宅する彼女とぼくが知り合いになったのは、不自然ではないだろう。


まだ、きっと彼女が背負っていたランドセルは、彼女の華奢な身体に重くのしかかるように見えたに違いない。指定の帽子をかぶった彼女を送るのが、ぼくの楽しみだった。何を一体小学生の僕達は話していたのだろう。彼女と、彼女の家の近くの男の子と、ぼくの三人で桜の花の咲いている坂道を登っていったのを覚えている。あの時の足取りは、もはや小学校1年生ではなかった。ぼくが小学校5年生か6年生、そうすると彼女はまだ3年生か4年生だ。しかし、ぼくにとって、彼女は十分に恋愛の対象となりえていた。


彼女は、人を見抜くような利発そうな目が印象的だった。細くすんなりと伸びた手足とこじんまりとバランスのとれた顔と頭、そして長く伸びた彼女の髪。大人だったら思わず抱きしめてほおずりしたくなるような、かわいらしげなしぐさ。彼女が公園の木の根元を首をかしげながらじっと見つめていたのを思い出す。華奢でかわいらしい身体だったのに、その目は常に冷静に人を見抜いているような目だった。


小学生の頃というのは、特に手足がのびる時期がある。成熟したプロポーションとは違う、人に華奢であることでかわいらしいという想いを起こさせるような身体だ。今でも小学生の生徒の中にやせっぽちの手足の華奢な少女に彼女の面影を見かけることがある。その面影は、ぼくをとても混乱させる。


桜の咲く坂を登りきったあたりにぼくの家があった。よく家から自転車で彼女を送っていったのを覚えている。彼女の家はぼくの家からまだ子供の足で20分とか30分も先にあった。自転車で、彼女を乗せて送っていくということは、彼女がぼくに好意を持ってくれている証拠だと信じていた。いつかは彼女に自分の想いを伝え、彼女が自分をどう思ってくれているのか知りたいと想っていた。想いがすべてだった。


自転車で送っていくときには、彼女はぼくにしがみついてくれていたのだろうか。あれだけ長い時間いっしょにいたのに、不思議と身体の重量感が残っていない。場面、場面のイメージはあんなに克明にぼくの中で生きているのに、いわば天使のように重さのない存在だった。いわば性が未分化だったころの想いだけが、純粋なのかもしれない。好きという想いが、愛し、接触し、大人の愛を生む前の結晶のような純粋な想いだけが残っている。


彼女に告白めいたことをしたことすらも記憶している。あの頃の好きという感情が現在の人をいとおしく思う気持ちとはまったく違うものなのだろう。好きだという気持ちをそこからどう発展させて良いのか、深化させれば良いのか、考えてみることすらなかった。ただ、好きだという想いは確実にあった。彼女はぼくよりも2つ下だったから、ぼくよりももっともっと幼かったはずだ。小学生のころの2才というのは本来相当な差があるはずなのだが、いつも彼女との会話では彼女に上手を取られていた。その日ももう一人二人の彼女の同級生といっしょに帰ってきていたに違いない。「好きな人はだれ?」とか「○○さんが好きでしょ?」とか、そういう幼い想いを告白する、あるいは暴露するのがその年代の主要な関心事であったのだろう、例によって話をしているうちに彼女にぼくは誰が好きかを告白しなければならないはめになっていた。いまだに思い出すと恥ずかしい思いでいっぱいになるのだが、彼女を自転車の二人のりで送りながら、「好きな人って...君だよ。」と、告白した。


子供の頃の想いは、一体どこまでいこうとしていたのだろうか?今なら相手の身体から快感を引き出す方法も熟知している。身体的にも、心理的にも相手を満足させる能力をお互いに持っているだろう。子供のころの「好き」は、まだ隠れて見えなかったそうした「性」を目的としていたのだろうか?相思相愛になって、手でもつなげば満足だったのだろうか。


こどもの頃の1年1年は顔があった。小学校4年生の1年間と、5年生の1年間はまるで違う時間が流れていた。まるで違う自分がいて、彼女がいた。いつから年の顔がなくなってしまったのであろうか?それは、ぼくが小学校を卒業して彼女とはもういっしょに下校しなくなった年からだ。


2002.4.26