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HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自由とはなにか?

自由とはなにか?「生きるための経済学」を再読して、改めて考え始めた。なぜなら、本書の中心概念であり、本書が提唱する目指すべきの生き方であるから。

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

目次

自由と自己欺瞞、虚栄、共同体

自由とは、安冨先生が目指すところを推測すれば、自己欺瞞、虚栄、共同体といった誘惑に満ちた「自由」で満足するのではなく、常に「創発」に向かって開かれた存在となる、なりつづけることであることかと想える。とはいえ、人は自ら快楽であったり、仕事であったり、異性であったり、富であったり、自分以外のものに隷属しがちである。このパラグラフも「自己欺瞞、虚栄、共同体といった誘惑に満ちた『自由』」の幻想の自己欺瞞に陥らない、と書くべきであった。

フロムの「〜への自由」

まず、「生きるための経済学」における「自由」に関する部分をいくつか抜き書きしていきたい。フロムの「〜からの自由」、「〜への自由」とは実に説得力のある議論である。また、現代人にとって一番ぐっとくる自由の概念定義ではないだろうか?

「生きるための経済学」 P.177

 フロムは、このイメージ(失楽園、自然との融合というエデンの園からの逃亡)を近代以前の「共同体」に安直に持ち込み、個人が共同体に全面的に結びつけられている状態で感じる帰属意識を「第一次的絆」と呼ぶ。それは、「子どもをその母親に、原始共同体の成員をその部族と自然とに、中世人を教会と社会的身分に結びつける絆」である。
 この一時的絆は「自然」の代替物である。そこから離脱することで人間は自由になり、近代人となる。この自由は「〜からの自由」という消極的な自由である。ところが、人間はこの自由が生み出す孤独感に耐えられない。それゆえ、偽装的な二次的な絆を求める衝動に駆られ、ときには消極的な自由を放棄してまでも、そのような疑似的絆を作り出そうとさえする。このような心性こそがファシズムの温床である。この衝動から抜け出さない限り、自由を守ることはできない。
 そのためには「〜への自由」という積極的自由を人間は獲得せねばならない。これは「行為が本能的に決定されることからの自由」であり、「選択の自由」を十全に行使しうる自己を確立することである。それによって「すべての人間との積極的連帯と、愛情や仕事という自発的な行為」を実現することで、自由を独立した人間として、世界とつながりを回復することできる。以上がフロムの「自由からの逃走」の標準的解釈である。

もうこのすぐ次の段落で、フロムのこの議論は安冨先生に一刀両断に去れてしまう。「絆」という「共同体」を志向した途端に、「自分自身の情動を裏切るような世界観」を押しつけられ、自我を喪失、自分の情動が信じられなくなる、と。ありとあらゆる自己欺瞞を排除し、自己嫌悪から起こる利己心までも排除しようとする安冨先生であるなら、ここまで徹底することになる。ちなみに、とてもとても「世界とつながりを回復」とまではいかないが、私はフロムの言う「〜への自由」の共同体を自分の地域で発見して、で自分の生き方を決定したと想っている。

君子たるべし、エリート中毒なかるべし

一方、このようにも書かれている。

P.190

もちろんこれ(自己嫌悪を覆い隠すために他人に認めてもらう行為の全て)は、勤勉、倹約、身嗜み、家庭を大切にすること、公益への奉仕、などといった徳目を否定するものではない。それらを、自分自身の生きた感覚から生み出されたものとして行うなら、それはじつに尊敬すべきことである。しかし、社会的自我に追い立てられて、体面を守るために「実用主義的な恥」から幸福の偽装工作として行うなら、それは虚栄であり、自己欺瞞を拡大する危険な行為である。問題は何をするかではなく、どのようにするか、である。人に叱られないためにするなら偽装であり、自発的にするなら徳目である。

「君子たるべし」と古典教育をもって育てられ、職場でのリーダーを務める責任からこころから基本的な徳目を満たすべきであると私は考えている。これも、自分自身が明らかに仕事中毒でった過去を考えれば、自己欺瞞ではないと言い切れはしない。ここの微妙なラインが共同体に認められながら生き延びることができるか、悲劇につながるかの機微となる。安冨先生は、引用部分の後に、「エリートという呪縛」という話しにつながる。この分析はそのまま高橋まつりさん事件である。私自身がこうならなかったとは言い切れない。自殺までいかなくとも、鬱のような状態におちいってもおかしくはなかった。

*1

安冨先生の自由

富も、仕事も、家庭も、共同体も、宗教も、すべては自己欺瞞であるとした後、安冨先生は自由について軽やかに語られる、

P.236

 自分自身を嫌悪せず、自らを愛する者は、自分自身でありつづける。そうする者は、虚栄には反応しない。それは死を示唆する気持ちの悪いものだからである。
 自分自身である者は、何をするかは自分で決める。自分自身の内なる声に耳を傾ける者は、独善ではない。なぜなら、内なる声には、周囲の状況への対処がすでに含まれているからである。なにをするかを自分で決める者は、自律的である。
 自律は自立でもある。経済学者中村尚志の指摘したように、自立とは他者に依存しない、というのではない。自立とは、多数の他者に依存できる状態をいう。いつでも頼れる人が100人ほどいれば、誰にも隷属しないでいられる。そのような豊かなネットワークを持つ人こそが、自立した人である。自愛が溢れ出る人*2であれば、生命を肯定する人々を惹きつけて、豊かなネットワークを作ることができる。

いうまでもなく、「内なる声には、周囲の状況への対処がすでに含まれている」とは孔子の「心の欲する所に従って矩を踰えず」という境地であり、孔子様ほどの君子、成人ですらこの境地に達するまでに七十年を要している。安冨先生の理想はよくわかるのだが、いま現在五十になってもこの境地に達し得ない私はどう生きたらいいのか?また、「誰にも隷属しないでいられる」とは特定のパートナーを作らない、いわば男女関係で極端に言えば「乱婚」を許容することになる。私は男女の間で分業関係が生まれた時に、家族が生まれ、現在の人類の経済的発展の礎となったと主張している。ハラスメントを避けるため、自己欺瞞に陥らないために、常に創発あふれる人間関係に対してオープンであるべきではあるが、安冨先生のご主張をそのまま受け止めれば家族という人類の礎すらも否定することにならないか?そもそも、ネオテニーで無力な幼児として生まれる人類においては、男と女の安定した関係を含む家族がなければ、生命を肯定しようにも、生命そのものが生まれない、育たないことになる。

ハラスメント、狂気への契機はいうまでもなく嫉妬だ。男女の愛の結果としての嫉妬からいくつの悲喜劇が生まれた来たかは知らない。これまた類推を許されれば、人類の歴史、人類の数だけあると言えよう。逆に言えば、まさにこの嫉妬の結果として家族が誕生した瞬間からネアンデルタール人と私達人類の先祖との間の運命を分けたのだと主張したい。

愛と嫉妬が、信頼、所有、法を産んだ - HPO機密日誌

私にとっての自由

ということで、私自身にとっての自由とはゲーテの「ファウスト」で語られる「自由」となる。いつもここに戻ってきてしまう。

そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。
それは叡知の、最高の結論だが、
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
自由と生活を享くるに値する」
そして、この土地ではそんな風に、危険に取り囲まれて、
子供も大人も老人も、まめやかに歳月を送り迎えるのだ。

[書評] ファウスト、最期の科白: HPO:個人的な意見 ココログ版

ハラスメント、自己欺瞞の誘惑、あるいは社会的紐帯との軋轢を恐怖するのではなく、むしろ自分が守りたい、自分が達成したい価値「への自由」を日々戦って勝ち取る生き方となる。私は実は自己欺瞞、自己不信の裏返しとして、リスクジャンキーな性癖がある。戦っていないと生きている実感がしない。この微妙なラインの内側で生き抜くことには、愛がなければならないと最近気づいた。って、これはもういいかげんにのろけるなと石が飛んできそうな程書いたのでもう止める。

そして、この危険と隣り合わせの自由こそが、次の結論に達する。

ハイエクの「自由」の帰結とはジェイコブズの言う多様性なのだ。やっと、私の中で経済社会活動と街の活動がつながった。

多様性は政策では作れない: 統治と自由 - HPO機密日誌

いうまでもなく、小倉昌男氏こそがハイエクの自由の代表選手といえる。社会を多様化させ、より豊かにするイノベーションの実行者こそが、「自由人」だと私は信じる。

小倉昌男 経営学

小倉昌男 経営学

*1:この「エリートの呪縛」を見事に漫画にされているエントリーがあがっていた。
承認欲求オブザデッド - orangestarの雑記

*2:「慈愛」ではない。通常あふれでるのは、慈愛であって自愛ではないが、本書では自分の内なる生命力を疎外させずにそのままストレートに外に表現できる人、創発のコミュニケーションができる人という意味と受け取る。