HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

人生無一物

人が生きるのにお金は必要か?西田天香さんが出した答えは、「否」であった。

どんな数でも零で割りますと無限になる。南無阿弥陀仏に本当に生きた一人の住職があるならば、その檀家はみな長者になったといってもよろしい。祖師の御足の後を歩む住職の後方から檀家はみな歩んでいくべきです。(中略)賢がって変わったことをなさらないでもよい。祖師の通り、生活まで貫いて大安心をきめてみれば、あとに残っている今までの財産は仏様からの預かりものとなってしまうのであります。奪い合いすることも睨み合いすることもいらぬ。生活だけはしかがたないということもいらない。この生活を教えて及ぼせば唯物史観側の改造論に劣らぬものができるはずです。

「懺悔の生活」 - HPO機密日誌

この「預かりもの」という感覚はとても大事。日本の伝統、社会の取り決めというのは、すべてこの「預かりもの」という感覚を共有することから出ている。ずいぶん長らく日本の地方では物々交換、共有地の里山が残っていた。そして、それを支える「講」などの組織も残ってきた。こうした社会的に豊かと想われる人間関係、社会の在り方を西欧流に言うとソーシャル・キャピタルというらしい。ああ、またキャピタルというお金が出てきてしまう。どうしても、お金に換算しないと気が済まないらしい。

日本に弱点があるとすれば、これまで蓄えてきたソーシャルキャピタルを使いはたしてしまったことだ。えいえいと室町時代から、農村から、江戸時代から、築いてきた人と人との付き合い方は、明治維新にも、太平洋戦争にも、耐え抜いてくることができた。しかし、戦後の教育と流動性の高さが人と人との付き合い方を変え、生まれて、教育されて、仕事をして、自分の始末をして、結婚をして、また子どもを産むというサイクルを、人とのソーシャルキャピタルの中で一人前にやっていくことがなくなってしまった。

派遣村だかなんだか知らないが、天涯孤独で生まれてきたわけでもあるまい。縁遠になっているとはいえ、田舎だってあるだろう。それが、その場所で生まれたわけでもない日比谷で年越しをするのはいったいどういうソーシャルキャピタルなのだろうか?ちなみに、田舎によっては仕事はあるぜ。私の知人は「これでようやく人を採用できる」と胸をなでおろしていた。

ソーシャルキャピタル不況、あるいは日本の没落 - HPO機密日誌

お金に換算してしまったとたんに、価値と時間が普遍性と不朽性を持つ。人と人との関係性、その村のもつ独自の工夫、構造がすべて数字に置き換えられ、他のものやら、関係性と交換可能になる。それどころか、その価値が数字である限り、その価値を維持、発展するためにかかるコスト、犠牲が見えなくなってしまう。

(中略)

ももちさんはよく「交換」、「贈与」、「純粋贈与」という話をされる。「交換」と「贈与」は、そのコミュニティーというか、社会の中での行為だが、それらの経済活動の根底を支えるのは「純粋贈与」なのだとよくおっしゃる(と私は理解している)。農業では、太陽、水、大地の恵みがなければ生産できない。地域経済にあっては、国家、地方政府の助けというのがどうしても大きい。一般の経済においても、エントロピーというか、経済の数字で測れない地球規模の環境や資源が存在していることが大前提になっている。

(中略)

いま目に見える経済が不景気とか、金融危機だの言われている。現下の状況について、「エンデの遺言」を読んだ勉強会の参加者の間では、以下のような共有の理解があったように思う。

「現実に存在するすべてのものは時間がたつにつれて劣化したり、老化したり、維持のためのコストがかかるのに、お金だけはあたかも神のように価値が変わらない。価値が変わらないばかりか、この無慈悲な神は利息を生むことを強要する。」

ネット通貨の勉強会の報告と人に残された時間 - HPO機密日誌

お金が危険なのは、まさにこの共通認識の通り、誰とでも交換でき、価値が認められている上に、維持にコストがかからないどころか、逆に利息を生まなくてはならなくなる。まさに、「強要」される。誰に?自分自身の欲望によってだ。

(人の欲望を駆動するものとは)「はてしない物語」に出てくる虚無の使いの「嘘」と「ファンタシー」に関する話なのだろう。「ファンタージェン」の住人が「虚無」の穴から「こちら」へ来るときに「嘘」に変わってしまうというくだりだ。(個別個別の願いやファンタジーが、お金という「嘘」にかわってしまうのだ。)

お金に対する欲望は限りない。過去いくつの殺人や、手ひどい裏切りがお金に対する欲望のために行われてきたか数え切れないだろう。しかし、もともと人が欲望の対象とするのは、お金ではない。ずっと考えてきた。安冨先生の貨幣モデルと、情報媒介者としての「商人」思考実験は重要だ。人と人との「取引」には、貨幣か、商人の存在が不可欠であることを安冨先生は示された。取引の貨幣モデルでも、商人モデルでも、「他人が欲しがるものを人は欲しがる」という傾向によって貨幣が生成し、商人は取引を完遂できる。安冨先生から引き出された、この結論にとても納得するものがあった。

安冨先生のおっしゃる「商人」とは元にもどってソーシャルキャピタル、人と人との個別の関係性だと言っていい。安冨先生の「商人」モデルとは、元にもどって西田天香さんの人生無一物という生き方が普遍的に実現可能であることを示したと私には想える。

ブログ開始13年にして、なにを書くことによって求めてきたか少し見えてきた。これまで教え、育てていただいたみなさんに心から感謝したい。

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