先日の長崎行きでは、大浦天主堂に伺った。いただいた、パンフレットがとてもわかりやすかった。
大浦天主堂
「こころの自由、ここにはじまる」とは、まさに長崎の隠れキリシタンの方々のためにある言葉なのだろう。250年もの間、司祭もないまま弾圧を逃れて信教を守った例というのは、世界中で他に例があるのだろうか?
私は、遠藤周作の「沈黙」は日本におけるキリスト教の変容、そして吸収で終わり、明治以降のキリスト教と全く断絶したものだと思い込んでいた。イスラエルに向かう飛行機の中で遠藤周作作品を読んだ時の感激と宗教の重さに圧倒されたことを今も覚えている。セバスチャン・ロドリゴの伝道は歴史から見れば空しく終わったのだと想っていた。
- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1981/10/19
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セバスチャンと「バスチャンの予言」との関連は明白ではないが、遠藤周作が知らなかったわけはない。
「バスチャン」とは、徳川家光のころに、深堀(長崎)平山郷出身の治兵衛という名の伝道士であったといわれています。おそらく、殉教者聖セバスチャンの霊名をいただき、それが「バスチャン」に変化したのでしょう。
Laudate | キリシタンゆかりの地をたずねて
(中略)
バスチャンは、「バスチャンの予言」といわれる次のような予言を残しています。
①お前たちを7代までは我が子と見なすが、その後は救霊は難しくなるだろう。
②コンヘソーロ(告白を聞く司祭)が、大きな黒船に乗って来て、毎週でも告白ができるようになる。
③キリシタンの歌を、どこででも大声で歌って歩けるようになる。
④ゼンチョウ(異教徒)に道で出会ったときは、先方が道を譲るようになる。
これもまた大浦天主堂のパンフレットで知ったのだが、この後「浦上四番崩れ」と呼ばれる迫害をこの隠れキリシタンの方々は受けることになる。幕府の弾圧による原島における島原の乱、数々の迫害に遭ったにもかかわらず信仰を守り通した、この方々に驚嘆の気持ちをもたざるを得ない。
繰り返すが、「こころの自由」とはこの方々にこそふさわしい。日本にも「自由」を希求する真摯な方々がいらしたことを誇りに思う。