HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

葬式という人生修行

この年になると、葬式に出ることが多い。特に季節の変わり目は増える。いや、もしかすると高齢化が進み、人口動態の「厚い」年代層がそういうお年頃になったからかもしれない。

葬式とはまさに人生の終わりの儀式だ。人生と幕末を見据えた河井継之助は人の死についてどう考えるか明確な言葉を残している。

人間というものは、棺桶の中に入れられて上から蓋をされ、くぎを打たれ、土の中へ埋められて、それからの心でなければ何の役にも立たぬ。

河井継之助の名言・格言|死ぬ気で行かないと人間は役に立たない

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河井継之助のように激烈にはなかなかなれないが、葬式とはまさに「自分が弔われる立場であったら」と考えさせられる場。もう生きていないのだから意識はないにせよ、死んだ後に罵られ、蔑まれ、野に放たれたいとは想うまい。

そんな想いに駆られている中にお経や、お坊さんの教えが語られる。先日の葬式で、「人身受け難し」という言葉を聞いた。

「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし」

「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く、こ... - Yahoo!知恵袋

これは、魂の転生のように想ってきた。ふと、この言葉は、人が死んで、土に帰り、それが植物の滋養となり、動物に食べられまた人間の身体の一部となる過程を言っているように聞こえた。より広く考えれば、この宇宙の中で自分の死を意識できる知的生命がどれだけいるのかと?たぶん、私達地球人の知覚の限界まで知的生命はいない。天文学的に考えても、まさに「人身受け難し」なのだ。

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やはり、河井継之助の「そらからの心」になるとは、まさに自分の貴重な命をどう真剣に生きるのか?まさに「真の剣」の上で生きる心地こそが、「真剣」なのだ。

そんなことを葬式に参列させていただきながら想った。葬式もまた人生の修行であると。