HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

ポーランドのユダヤ人

先日、子供から「アウシュビッツもやはり人生で一度は実際に足を運ぶべき場所」と言われ、改めてアウシュビッツポーランドにあることを思い出させられた。

アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ[1])に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 - Wikipedia


アウシュヴィッツナチスドイツ強制収容所

アウシュヴィッツナチスドイツ強制収容所 激動の歴史に翻弄されたポーランドワルシャワ歴史地区
1939年9月ナチスドイツはポーランドに侵攻し、ポーランド領内のユダヤ人、反対派の住民への弾圧を強めていました。1940年5月にはアウシュヴィッツ第一収容所が開設され、1941年には第二収容所が開設され、1945年の終戦までにのべ150万人以上もの人々が犠牲になりました。

アウシュビッツにはちょっと遠いので、せめてもと「ポーランド・ユダヤ人博物館」に行こうとした。

ポーランド・ユダヤ人歴史博物館 
Muzeum Historii Żydów Polskichとは・・・?

ワルシャワ・ゲットー蜂起」の70周年にあたる2013年4月19日に ワルシャワゲットー(ユダヤ人隔離居住区)跡地にオープンした博物館。かつてのユダヤ人街であったムラヌフ地区に建てられた。ユダヤ人の歴史だけではなく、ユダヤ文化も知ることができる。

ウェブで調べると18時まで。自由時間になったのが16時過ぎ。厳しいかなとは想いながら、タクシーに飛び乗った。このタクシーの運転手さんが饒舌な方で、到着するまでにいかにナチスアウシュビッツだけでなくて、ポーランド国内、特にワルシャワでユダヤ人をゲットーに閉じ込めて、50万人を抹殺(諸説あり)したかを語ってくれた。ところが、ところが、セキュリティチェックまで受けてチケットブースに行くと、「16時で入場は終わりだよ。例外はないよ」と言い切られてしまった。仕方なく、手に入る資料を探し、観光局のユダヤ人遺跡ガイドと本を一冊買ってきた。帰りどうしようかなと想って建物の写真を撮って、元の道を歩き始めようとすると、くだんの運転手さんが待っててくれた。これ幸いと載せてもらってホテルまで帰ってきた。その道中、なぜワルシャワにそもそもそんなにたくさんのユダヤ人がいたかを説明してくれた。

「そもそも、ワルシャワに15世紀(?)までにユダヤ人のラビ(?)が来て、居留地ができた。その後、コペルニクスが学校を作った(確認できず)のも大きかった。一時は、世界のユダヤ人の人口の4分の3までがワルシャワに住んでいた(後述)。とにかくワルシャワは、昔はニューヨーク以外では、いまはNYとイスラエル以外では、一番ユダヤ人の人口が多い。そもそも、イスラエルポーランド系ユダヤ人が提唱してできた国。イスラエルのユダヤ人の大半はもとを辿ればポーランドにいた。」

目を丸くして、「歴史の先生みたいですね」と言ったら、「本当に歴史の教師だった。資本主義になって、歴史の教師では生活できなくなってタクシーのドライバーをしている。資本主義になってから、社会は本当に平等ではなくなった。資本家ばかりが得をしている」と帰ってきた。いやはや。

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Jews in Poland

Jews in Poland

裏表紙の解説を訳してみる。

17世紀の終わりまでに、世界のユダヤ人の4分の3がポーランドの国境内に住んでいた。迫害からの避難所としてだけでなく、ユダヤ文化の中心地として栄えていた。この文化は、国としてのポーランドの衰退と分割を生き抜いた。そして、19世紀にはユダヤ人世界を変える知的な運動、シオニズム世俗主義社会主義、そして新正統主義などを生んだ。19世紀後半からの大量の移民増加に伴って、従前のポーランド共和国におけるユダヤ人の影響は、西ヨーロッパ、南北アメリカ南アフリカ、オーストラリアを周辺に広がった。

そして、この後、ユダヤ人が栄えていたポーランドナチスの標的にされ、前述のアウシュビッツに先駆けて、ワルシャワに劣悪な生活環境の「ゲットー」が創設された。

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ワルシャワ・ゲットー (Getto Warszawskie) は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがポーランドワルシャワ市内に設置したゲットー(ユダヤ人隔離地域)である。ナチスが創設したゲットーの中では最大規模のものである。

ワルシャワ・ゲットー - Wikipedia

ここでくだんのタクシー運転手さんのおっしゃっていた50万人とも、30万人とも言われるユダヤ人虐殺が行われた。ワルシャワ蜂起に先駆けて試みられたワルシャワ・ゲットー蜂起もあったが、逆に市内の最大のシナゴーグを破壊される、ゲットー内の建物をバラックにされるなど最悪の結果となった。結局、ナチスが降参し、ロシア軍に解放された時には、数十万人いたはずのゲットーに収容されたユダヤ人はほんの少ししか生き残れなかったと。これまたタクシー運転手さんに教えてもらった通り。

ちなみに、夜中に出かけた行き帰りに無名戦士の墓の晩をする兵士を見た。ポーランド内で行われた戦い、そして虐殺を想うと、重要なことだと改めて想った。

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とてもとても、ディスコに行って踊りまくって、ついでに北欧諸国の銀行の方々と友達になった帰りだったとは言えない。資本主義の権化のような立場の私には、タクシー運転手になった歴史の教師の方が、トマシュと重なって見えたとしかかけない。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

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