HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

リベラルとは三方よし

クルーグマンのリベラルとは何かを考え続けている。現在到達した私の結論は、リベラルとは自分の周りをよくすることで自分もよくなるという「三方よし」の思想であるということ。富裕層の富裕層による富裕層のために、民主主義があるのではない。本来力のある人達こそがリベラルを目指すべきなのだ。そこに、社会も、人も、自分も鼎立しうる未来がある。確かに本来はリベラルとは政治的主張を表す言葉である。しかし、クルーグマンにおいては、この言葉は民主主義の理想を示しているように私には想える。リベラルを自認するクルーグマン教授は不況がお嫌いだ。ここから始めよう。

クルーグマンが不況がよくないというのは、基本的には仕事を失う教師がでることや、職業訓練や、必要十分な教育を受けられなくなる世代が生じるからだと言う。決して、国ありきの発想ではない。彼が非難するのは、中途半端な金融政策、政府支出の政策によって、不況対策が十分とれなくなることだ。インフレになること、国の財政が赤字になることが気に入らない「国債自警団」、「通貨マフィア」のような人たちにクルーグマンの矛先は向いている。そして、クルーグマンのまなざしは中途半端な支出抑制により職を失った何万人もの教師に向いている。国として儲かるもうからない、単純な国益にかなう、かなわないではない。当然、クルーグマン個人が利益をうるためでもない。

「リベラル」とは「小さきもの、弱きものへの慈悲」か? - HPO機密日誌

なぜ職業訓練が必要か?なぜ不況に乗じた富裕層の優遇が問題か?それは、現代における人の最大の資産である「働く技能・力」がない層と、「稼ぐ力・手段」を最大限占有している層とがわかれ、前者は後者の「奴隷」になりかねないから。古代ローマの「リベラル・アーツ(教養)」という言葉に惹かれる。

「リベラル」という言葉には「人を自由にする、すべての人を自由人とする」という含意が込められていると私は想う。自由とは、思想的、行動的自由はもちろん、自由な生活が送れる経済活動ができる自由も含まれている。

「ロンドンのパン供給責任者」 - HPO機密日誌

自由であることの反対は、奴隷だ。日々の糧をかせげなくなり、将来への職業訓練を受けられない世代が生まれることは誰のためにもならない。日本のサラリーマンは自己憐憫という病にかかっていて、自ら奴隷になっている。ま、それは別の話しとして・・・。

稼ぐ力、教養はあなたを奴隷状態から救いだし、自分がやりたいことをやりたいようにできる自由をもたらす。自由人と奴隷の対立を、古代ローマの歴史に見る。カエサルカエサルローマ皇帝)となった最大の動機は子供のころのローマ国内での民衆派と財閥派の抗争の体験であったという。

カエサルが、民主主義、元老院主導により貧富の差が開き大規模な内乱になったローマを憂えて、帝政を選択した。その名が「皇帝」という言葉になるほど、真剣に徹底的に帝政を目指した。それしか、「小さきもの、弱きものへの慈悲」を体現し、内乱を避ける方法はないと確信していたからだろう。

「リベラル」とは「小さきもの、弱きものへの慈悲」か? - HPO機密日誌

ローマ史としては、Wikipediaにこうある。

カエサルの青年期に当たる前90年代から前80年代はローマが戦乱に明け暮れる時代であり、紀元前91年の同盟市戦争、紀元前88年から始まったミトリダテス6世率いるポントス王国とのミトリダテス戦争などがあった。また、ローマ国内も政治的に不安定な時期であり、当時ローマでは民衆を基盤とする市民会の選挙政治を中心とする民衆派(ポプラレス)、元老院を中心とした寡頭政治を支持する閥族派オプティマテス)の2つの政治勢力が対立、各派の中心人物は民衆派がガイウス・マリウス、閥族派がルキウス・コルネリウス・スッラであった。カエサルの叔母ユリアはマリウスに嫁いでいたため、カエサルは幼少の頃より民衆派と目されていた。

ガイウス・ユリウス・カエサル - Wikipedia

ローマでは、帝政に移行することにより逆に当時の富裕層である財閥派といえる元老院の力を押さえ、民衆の活発な力を政治にも、経済発展にも、なによりもローマ軍にも取り入れることでこの後の二百数十年に渡るパックス・ロマーナの礎を築いた。

現代も同じだ。パナマ文書の露出に見られるように、富裕層と民衆との世界的なギャップは耐えがたいレベルに達している。今後、このギャップが世界に自由と富を行き渡らせる最大の障害になりかねない。

hpo.hatenablog.com

私の中での現代のリベラリストのもう一人のヒーロー、ライシュの本をここに載せて本エントリーを閉じる。民主主義は完全な政体ではないが、最悪の政体でもない。

ロバート・ライシュ 格差と民主主義

ロバート・ライシュ 格差と民主主義