HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「日本がアメリカを赦す日」を再開する

ずいぶん、前に友達に教えてもらった。「日米関係を論ずる上で重要な本だ」と言われた。十数ページを読んで、なぜか読み進められずにいた。ようやくいま、安保の夏、終戦の日の直前まで来て再開し始めた。

日本がアメリカを赦す日

日本がアメリカを赦す日

日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)

日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)

岸田秀は戦前、戦後の日米関係を振り返る。日米関係はペリーの昔から親分子分の関係であったと。それを日本側がきちんと認識しているのかと。

真珠湾攻撃に対するアメリカのすさまじい怒りは、油断していて自国の軍港が攻撃されただけなのに、なぜあんなに怒るのだろうと日本人は不思議でしたが、アメリカ人の主観としては、恩知らずの裏切り者に対する善意の恩人の怒りでした。原爆投下に収斂するアメリカの残忍な作戦は、要するに、アメリカのおかげで野蛮国から文明国になったくせに、そのことを感謝しない日本をもとの野蛮国にひきもどすことをめざしていたのだとの観点から考察すれば、いろいろ思い当たるところがあります。

これは、吉本隆明「米軍が日本に侵攻してきた時に日本人はみんな死んでいて焦土にひゅうひゅうと風が吹き渡っているのを見たら連中はどう思っただろう(笑)」という観相にも通ずる。

個人にしても国家にしても、生きるため、存続するためには、自尊心、誇りの保持と、現実的自己保存とが必要です。前者を欠けば、おのれの存在価値が失われ、すべては限りなくむなしくなり、空虚感、敗北感、劣等感の地獄に落ちます。そして、後者を欠けば、現実における生存が危うくなり、悪くすれば、死ぬか滅びるかになります。

誇りと現実の間で、日本人は日米関係を行ったり来たりしてきた。それは、ある意味で神経症的であったと、いや、いまもそうなんだと。

国家にしろ個人にしろ、同じことです。神経症も、幼いときの親子関係とか、自分に関する都合の悪い現実を見ないから起こるのです。これまで見ていなかった現実を見さえすれば、神経症は基本的に治ります。非常に単純なことですよ。(中略)その場合、神経症が治ったからといって、天にも昇るような素晴らしい気分で人生が送れるようになるわけではありません。

現実はつらい。日本が普通の小国でいいのだと「現実」を自覚することは極めて難しいのだろう。左右両翼とも、この神経症あるいは幻想の自国像から逃れられてはいない。まして、神経症をなおして、現実をみても、現実は更に辛い。

いずれにせよ、事実上はアメリカの属国なのに、対等だと思い込もうとしたり、アメリカなんかやっつけられると誇大妄想に陥ったりするのだけは避けなければなりません。

左翼、リベラル、護憲の方々すら神経症、幻想に立脚していることをこともなげに岸田秀は論破している。左右両翼とも現行憲法にいろいろな不備がある。まして、九条すらまともに書かれていないことは誰でも知っている。そして、現行憲法は親分である米国から押しつけられたものであることも誰でも知っている。いささか刺激的だが引用する。

日本国民が不戦条項に真に賛成なら、いまの憲法を改正して新しい憲法を作り、そこに不戦条項を入れるべきです。内容が正しいのであれば、押しつけられたものだっていいのではないかという議論がありますが、これは誇りを失った卑屈な者の議論です。この議論は、強姦されて処女を奪われた女が、何の価値もない処女を長いあいだ後生大事に守っていたわたくしは間違っていた、人間は男も女も性交を知ってこそ真に人間らしい生活ができるのだ、私を強姦したあの男は私に性交という真の人生への扉を開いてくれたのだ、強姦された私は幸運だった、彼に強姦されなかったら、一生、性交を知らず、間違った人生をおくってであろうと考えて、強姦されたことを正当化し、彼に感謝するのと同じです。この女の論理はどこかおかしくはないでしょうか。このおかしさに気づかないのは、誇りを失っているからではないでしょうか。

ここから日本の建国神話までさかのぼって神経症的な日本がどこからきたのか、どこへゆくのかを論じているらしい。なんとしても、終戦の日までには読了したい。