HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

台湾の歴史

あまりに知らないことが多い。

日本と台湾 (祥伝社新書)

日本と台湾 (祥伝社新書)

中共に押されて国民党が敗残に敗残を重ねて台湾に来たことは知っていた。

台湾ですら、根本元陸軍中将の歴史は消されていた。たまたま会った台湾の友人に確認した。金門島の戦闘は知っていても、日本人が戦闘の顧問として参加していたことは全く知らなかった。

国の歴史とは思想の戦い - HPO機密日誌

しかし、蒋介石が落ち延びてくる以前に2.28事件があったこと、台湾人が国民党でなく日本もしくは米軍に統治してほしいとまで嘆願していたことは知らなかった。

二・二八事件(にいにいはちじけん)は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)との大規模な抗争。
(略)
1945年に日本が敗戦した後の台湾には、連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために大陸から蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人が進駐し行政を引き継いだ。
当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、中国大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの腐敗の凄まじさに驚き、失望した。大陸から来た軍人・官僚は国共内戦の影響で(精鋭と呼べる人材は大陸の前線に送られており)質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が罰せられぬことがしばしばあり、もし罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。また、台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、台湾の物価は高騰、インフレによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。
不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたいものであった。人々の不満は、いやが上にも高まっていった。当時の台湾人たちは、「犬去りて、豚来たる(中国語:狗去豬來)」(意味:犬〔日本人〕はうるさくても役に立つが、豚〔国民党〕はただ貪り食うのみ)と揶揄した。
(略)
本省人側は国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本語が話せない部族もいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけた。
(略)
この事件によって、約28,000人もの本省人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。実際の被害者の数はさらに多いとの説が今尚根強く存在しており、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。

二・二八事件 - Wikipedia

冒頭にあるように、当時はまだ台湾の外省人たちは日本人であった。腐敗しきった国民党に対して国として日本は抗議することができたはず。

以前、NHKの番組で台湾の方々が「(敗戦により)確かに日本には置いて行かれたという怨みがある」という旨の話しをされていた。いま、ようやくその「怨み」の背景にあった暴力の実像がわかった。

また、別途調べてみたいが、政治的パフォーマンスのための大陸政府・中華人民共和国との国交回復にあたっても、日本は台湾を見捨てている。内省人による支配の中で、歴史の教科書も非常に日本に辛い記述がたくさんあるとも聞いている。それもまたこれまでの歴史を考えれば仕方がない。こんな日本をよく台湾の方々は慕ってくれていると改めて感謝したくなった。

この映画はまじでみないと。

そういえば、「悲情城城」をきちんと観ていなかったからこういう無知を今更さらけ出すこととなった。ちゃんとみよう。

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