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HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「行動学入門」のおわり

ようやく読了した。仕事に奔走し、酒にまみれ、世事にまみれ、本書を読了するのにだいぶ時間がかかってしまった。

三島由紀夫の著作に触れるたびに、なぜ私は若いうちからその著作にもっと親しんでこなかったのか不思議に思う。私の学生時代は、三島由紀夫の自決から20年まではたっていない。まだついこの間のことぐらいであった。私は無意識におそれてきたのか?私があまりに人生に対する哲学がなかったからか?私のまわりが意図的に三島の自決をから目を背けてきたのか?

行動学入門 (文春文庫)

行動学入門 (文春文庫)

高校、大学の頃、「金閣寺」、豊穣の海シリーズに触れることはあった。しかし、その文章の美しさに打たれただけで終わっていた。「行動学入門」に示されたような、三島由紀夫の生き方、思想に触れることはなかった。本書は、若者、女性、仲間に当てた遺書なのだろう。自決の一ヶ月前にあとがきが書かれたという。あとがきに言う。

こういう軽い形で自分の考えを語って、人は案外本音に達していることが多いものだ。注意深い読者は、これらの中に、(私の小説よりも直接に)、私自身の体験や吐息や胸中の悶々の情や告白や予言を聞いてくれるであろう。いつか又時を経て、「あいつはあんな形で、こいういうことを言いたかったんだな」という、暗喩をさとってくれるかもしれない。

本書の「行動学入門」は、主に若い男子学生を行動に、しかも軍事的要素を含む行動に駆り立てるであろう。男は元から闘う性だ。その性に火をつけるべく書かれている。「おわりの美学」は、女を「おわり」へと誘う。この段のあちこちに、女性は別れる時に豹変する、とんでもない行動をすると、胸に痛みを覚えるほど的確に書かれていた。ことほどさように女とはことにこだわり、ことを終わらせない性だ。この終わらせない性をおわらせることによってのみ、女は人となる。「革命哲学としての陽明学」は、行動しないインテリに向けた檄文だ。インテリとは、人を行動に駆り立てる知識や文章に接しながらいつまでも行動しない性だ。大塩平八郎を例に出しながら、インテリをもおわりの行動にかきたてる。

「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚というものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを良知によって弁別し得る最後のものであり、ここに至って人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとえば壺が毀されると壺を満たしていた空虚はそのまま太虚に帰するようなものであると、といった。壺を人間の肉体とすれば、壺の中の空虚、すなわち肉体に包まれた思想がもし良知に至って真の太虚に達しているならば、その壺すなわち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に遍在する太虚に帰することができるのである。

三島由紀夫の自決とは、なんという全ての面において考え抜かれ、徹底され尽くした行動であったろうか。本書、「行動学入門」のおわりとは、三島由紀夫自身による三島由紀夫のおわり以外ありえない。