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HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「日本語の哲学へ」と不在の感性

長谷川三千子氏の本を読むのは、初めてだった。いわば、私にとって初体験だった。ほんとうにこれは名著。日本語の奥底にある哲学を見事に切り出しておられる。にしても、長谷川女史にかかるとデカルトも、ヘーゲルも、ハイデガーも、廣松渉氏も、見事にぶったぎられている。もう切れる、切れる、切れる。女史の哲理と感性の切れ味はするどい。

日本語の哲学へ (ちくま新書)

日本語の哲学へ (ちくま新書)

西欧哲学上の「ある」ということ、存在の根源の問いかけから始まる。そもそも、このパルメニデスから始まる話しに興味があって、本書を手に取った。私は哲学の徒ではないので、長谷川女史の話を要約することは手に余る。それでも、書けるところまでかきたい。

ギリシアのパルメニデスの「有があって無はない」という哲理は、哲学上大変難しい問題を含んでいると。

「あるものはあるのであり、あらぬものはあらぬ」(断片6)、「あらぬものがあるという事は、決して証しされないだろう」(断片7)(略)「あるは不生不滅」(断片8)

ギリシア思想14

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すべてが「ある」ならば、「不生不滅」だと。不生不滅であるなら、時間もない、動きもない、意思もない、ゆらぎもない。ならば、「不生不滅」は「無」と同じだと。「無」にも、時間もない、動きもない、意思もない、ゆらぎもない。

この矛盾を、ヘーゲルが「ルビンの壺」のだまし絵のように明滅する有と無とういアナロジーによって克服したという話しは特に興味深かった。人をみれば、たかつきは見える。たかつきをみれば人はみえない。ふたつのものの片方しか我々は見えない。

2007-12-01

魚と食材、ルビンの壺 - mmpoloの日記

「ロゴス」というギリシア語には、「分ける」という言葉から生じているという。ロゴスには、生成も不滅も含まれない。だから・・・とは私の暴論で、ここをつなぐのに通常なら哲学書三冊分くらいの思想を本書の半分で長谷川女史は書いている。女史の切りに切りまくった結果だけをとれば、ギリシア語、欧米言語で哲学する限り、この「有」の矛盾は解けない。ハイデガーですら、この話しは多少誤魔化していると。

「有」の哲学の豊穣性と矛盾は、あたかも中国の神話の「渾沌」のようだと。

哲学という学問は、渾沌に目鼻をつけて殺しておきながら、しかも渾沌の素顔を見たいと願う、いかんともしがたい学問なのだ

ここに立って、西東先生の「在ること」の驚きという話しが改めて身体にはいってきた。

パイドロスは「在ること」、ピュシスの驚きを、ソクラテスプラトンアリストテレスが塗り込めてしまったと語る。アルテーとして、全身全霊を込めて技術を磨いていた精神が、リニアな理性に塗り隠されてしまったと語っていた。

パイドロス ふたたび - HPO機密日誌

「禅とオートバイ修理技術」、「現代思想としてのギリシア哲学」は、現在に至る主流の哲学が塗り込めてしまった、「あることへの驚き」としての生成する哲学を再発見している。この西欧流の哲学の根源にまで女史は切り込まれている。すごい!としか言いようがない。

ここから先は、まして私の力にあまる話しだ。ここから長谷川氏は、日本語の「もの」と「こと」の哲学を万葉集古事記まで遡る旅に出る。結果、日本語には、ギリシア語、欧米語とは違う存在様式を言語レベルから持っていたと。この「無への希求」を含む「ベールに隠された」「もの」という言葉を「物」という感じに結びつけた時点では非常に明確であったと。「こと」を「事」、「言」に万葉仮名以来結びつけたのにも、深い背景があると。「言葉」とは「ことのは」(事の端)なのだと。「もののあはれ」と本居宣長が言い切ったのには、日本の精神の深みがあるのだと。また、日本語を素直に受け止めて生活するかぎり、この国には西欧流の哲学は根付かないし、生きていく上での必要性もないのだと私は受け止めた。

本書の最初のモチーフである和辻哲郎の「続日本精神史研究」の「日本語と哲学の問題」にあまりに感銘したので、正続を一冊とした「日本精神史研究」を中古で買ってしまった。

本書の「『もののあはれ』について」の最後の部分で、平安時代の女性がなぜ日本語の深い哲理をものにして、書き表すことができたのかに触れていた。それは、意志薄弱で右往左往してばかりいる平安時代の男に比べて、同じ時代の女性は切実な「不在」の想いを抱き続けていたからだと和辻哲郎が書いていた。本書の随所に「長谷川三千子女史は現代の紫式部だ!」と呼びたくなるような、日本語の哲理をものした感性を感じた。オリジナルの旧仮名遣いで本書を読んでいたら、さらにその想いは強くなったに違いない。