HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

毛沢東の矛盾論とべき乗則

毛沢東が書いた「矛盾論」によれば、社会主義運動とは永遠に続くのだと。そして、ありとあらゆる矛盾の中にこそ唯物論弁証法が存在し運動しつづけるのだと。これはマルクス主義というより、中国伝統の「タオ」ではないだろうか?

事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、唯物弁証法のもっとも根本的な法則である。レーニンは言っている。「本来の意味においては、弁証法は、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である。」


(略)


ここで、われわれは次のように総括することができる。事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、自然および社会の根本法則であり、したがって、思考の根本法則でもある。それは形而上学の世界観とは正反対のものである。それは人類の認識史における一大革命である。弁証法唯物論の観点から見ると、矛盾は客観的事物および主観的思考のすべての過程に存在しており、すべての過程の始めから終わりまでを貫いている。これが矛盾の普遍性と絶対性である。矛盾している事物およびその一つひとつの側面はそれぞれ特徴をもっている。これが矛盾の特殊性と相対性である。矛盾している事物は、一定の条件によって、同一性を持っており、したがって、一つの統一体のなかに共存することができるし、また相互に反対の側面に転化してゆくことができる。これもまた矛盾の特殊性と相対性である。しかし、矛盾の闘争は絶えることがなく、それらが共存しているときでも、あるいは相互に転化しているときでも、闘争が存在しており、とくに相互転化のときには、闘争がいっそうはっきりとあらわれる。

毛沢東・矛盾論

一方に動く流れの中に必ず次の「矛盾」が内在し、次の大きな流れにつながると。それは、太極そのもの。

べき分布のグラフを見ていると運命論的に、強いもの大きいものの「winner takes all」な状況は固体化されてしまっているように感じるが実は違う。常に小さきものの中から独自性をもった大きなものへの運動が起こり続け、強いもの大きいもの少ないものが倒されていく中で均衡をとっている。倒されるときにサイバーカスケードが起こる。それは、あたかも、極小から極大へ向かい、極大の中に次の極小がの種が埋め込まれている大極のごとくだ。

小さきもの、弱きものへの慈悲 - HPO:機密日誌

しかし、中国はすでに「小さきものへの慈悲」すら失ってしまっている。この矛盾をどう克服するのか、現在の中国経済という極大の中にある矛盾の種により、極大が失われるのか。それは、すでに毛沢東の1937年のこの矛盾論に予言されていたように想う。

山本七平が「人望の研究」の中で「掘り起こし共鳴現象」として、新しい文化、科学の導入に当たって人は自分の伝統文化の原理原則からしか理解できない。その理論を理解したように見えても、実際は自分の伝統文化歴史を掘り起こしているにすぎないと。毛沢東も、マルクスレーニン主義をタオと孫子から理解しているようにしか受け取れない。