HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

近思録の九徳と統治の倫理

山本七平がなぜ中国古典の本を書いたか不思議だった。山本七平は、組織について軍隊生活で失望を極めたはずなのに、なぜ組織を率いるリーダーについて多くの著作を書いたのか?本書を読んで、山本七平は、自分の軍隊生活に欠けていたのは、徳を備えたリーダー、適切な徳と能力を持つ指揮官であったことを当然気づいていたのだと理解した。そして、一連の古典に関する執筆は、組織を適切に率いることができなかった軍隊のリーダーのあるべき姿の「模索」であり、山本七平が生きた当時の「現代」を生き残る上で、古典の知恵が大切だと想ったからだとあらためて理解した。

単純すぎるかもしれないが、著述業の山本七平である前に、山本書店の山本七平社長であったのだと。そして、山本七平の生きた時代は、戦後の揺り返しが激しすぎたのだと。

リーダーシップは洋の東西を問わない、独特の徳があるというのが、山本七平の主張だ。ここを検証するために本書で数多く取り上げられている「九徳」とジェイコブズの「統治の倫理」、「市場の倫理」と比較する。

市場の倫理 統治の倫理 (日経ビジネス人文庫)

市場の倫理 統治の倫理 (日経ビジネス人文庫)

経済の本質―自然から学ぶ

経済の本質―自然から学ぶ

今はあまりに眠いので、詳しくは又あらためて。




「統治の倫理」と「九徳」を改めて、比較してみた。昨日のは、間違っていることがわかった。九徳とは、文字通り統治の倫理と市場の倫理を同時に満たせと行っている。「寛にして栗」で言えば、「寛」は市場の倫理、「栗」は統治の倫理なのだ。ジェイコブズが指摘するように統治の倫理と市場の倫理は明らかに矛盾している。うわっつらをなでているだけでは、決して同時に満たすことは出来ない徳目だ。しかし、君子、リーダーであればこの矛盾を矛盾としない決断、実行、行動ができないといけないというのが、近思録、中国古典の知恵なのだ。