HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

家風と不可避の決断と私

不回避の選択って普通に生きている日常がすでに不回避の選択。朝何時に起きるか、朝ご飯を食べるか食べないか、靴を右足からはくか、左足からはくか?意識しようとすまいと、すべては不可避の選択だ。

日常の選択とは、不可避ではあっても習慣だ。習慣は、得てして家風と伝統によって育成される。育ったふるさと、産まれた家の家風、誰と誰の子か。持って生まれたものも、産まれてから学んだものも、ふるさとの風土、伝統の家風、父と母によって決まっている。だから、日常の選択はかなりの程度で決まっていて、選択しているようで選択していない。

そして、選択は選択の卵を産む。ブラックスワンのような思いがけない不幸は、日常で不幸の卵を産み続けているから。ここぞという不回避の選択の時とは、生み続けた卵がかえって飛び立つ時。「不幸」を「幸せ」と言い換えても起こることは同じ。思いがけない不幸、思いがけない幸せに人生は満ちている。

確かに、ぎりぎりの選択の時、親からどう育てられたか、幼少時代にどんな経験をしたか現れる。のんびりしたやつだと思われがちな私でも、いくつかの人生の選択をし、その結果を甘受してきた。恐怖におびえながらも、不可避の選択をしてきた。

不可避な選択に必要なエネルギーのみなもとはなにかと、人生のおりおりに自問してきた。それは、ふるさとであり、伝統であり、親だというのが自分の答えだった。ふるさとや、伝統や、親を、超克する努力もしてきたつもりだったが、それらの引力圏から脱出できなかった。

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自分が四十数年生きてきて、脱出できない自分こそがオンリーワンの自分なのだと気づいた。幸せも、不幸も、伝統も、家風も、親も、自分も、不可避の選択の結果として受け入れる。受け入れるからこそ、自分のエネルギーが出るし、オンリーワンなのだと喜びをもてる。それがどれだけおろかな結果であれ。

目を周りに転ずれば、小さな街に住んでいるせいか、ああ、この親にしてこの子ありという経験をしてきた。人の選択は驚くほど家風と親の影響を受けている。自分のことはなかなか見えないのに、人のことは見えてしまうのが、人の性。さびしいところだ。

非常に優秀な方で親からの影響も、受けた初等教育すらも乗り越えて真理にたどり着いてしまう人もいる。思想というか、頭の中で世の中のことがシュミレーションできてしまう人たち。食事しただけで、そのレシピが浮かんでしまう人たち。

おろかな私はそんなことはのぞめらくもない。おろかなままの狭い選択肢の中で、おろかなままの自意識で、おろかな選択をするしかない。おろかなのだから、ただただ全身全霊でことにあたるしかない。全身全霊でことに臨むかぎり悔いはない。

親とか、家族の伝統とかから、人を自由にするのが古代ローマ帝国におけるキリスト教の役割のひとつだったのかな?裕福で社会が安定すると格差が広がるという矛盾。日本は幸いにして貧乏だけで社会が安定して平和だったから江戸時代が江戸時代であったと。思いは散漫に浮かんでは消えるが、おろかな私はそれ以上思考をすすめることすらできない。

ま、こんなことしかつぶやけないのは、修行足りないから。父母未生以前の公案をきちんと解けてない自分なのだと告白しているようなものだ。