HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

家業継承と自分語り

難しい、ほんとうに難しい、この辺の話しは。

私は、20代前半で自分がなにができるか、なにを使命にすべきかを考えた。考え抜いて、結局父祖の築いた会社に戻ることを私は決意した。

誰に言われたからでも、親族のなんともいえない空気に押されたのでもない。子どもの頃から総領息子として育てられたからでもない。

過程は省略する。結果として、それなりの努力の結果として、一生食べていて、自分の仕事にやりがいと誇りをずっと持てるだろうという場所に20代半ばまでにたどり着いた。いまでもそのことに自分で自分に誇りを持っている。当時の仲間といまもつきあっていられることに喜びを持っている。

ただ、都内で仕事をしていると、どこまでも仕事のスケールは広がっていく。いくらでも優秀な方がいらっしゃる。自分のたどりついた場所で仕事を続ける限り、自分の誇れる場所というのは、実は他人を持って代えられる場所であった。言い換えれば、自分にとってはかけがえのない仕事であっても、仕事から見れば自分はかけがえなくはない。

一方、自分の田舎では自分はかけがえのない存在になれると感じた。まだまだ、人材が足りていないなとも思った。自分が自分でしかできない仕事と使命がどこにあるかと考えたときに、自分の田舎だと気づいた。自分で自分の分限、きわをきめるられる立場がが大切だとぼんやりと思った。

後で考えてみれば、「創造的無能」ってやつかなって。

そして、以前の会社を離れ、家業に戻った。

いま、それから20年近く経って、誇りをもってこの家業を、この街を自分のふるさとだと言える。こここそが、自分の死命をかけて仕事をする場所だと腑に落ちた。自分が予定していた場所に立てた。

いや、いまの場所に立ち続けるだけでも、日々必死の想いで働いている。

そして、女増田の後継者問題だ。まったくひとごとではない。この女増田の父親とたぶんいまの私は大して年齢は違わない。子どもの構成も似ている。私にも次代を子どもたちに考えさせる時期が来ている。

自分が予定した場所にたどり着いたその日から、後継者のことは考えている。半ば自分個人の問題で、自分と一緒に働いている人たちやお客様に迷惑をかけることはできない。後継者については、二の矢、三の矢とついつい考えてしまう。

中小企業における後継者に第三者は難しい。まず、ベンチャーでもなければ、資金調達の方法はかなり限られる。自己資本の充実か、銀行からの借入となる。よっぽどの会社でないと代表者の連帯保証が借入の時に求められる。雇われ社長でサインする度胸があるだろうか?第二に、どれだけ採用活動をしても来てもらえる社員のレベルに上限はある、残念ながら。子育てを間違えない限り、たいがい自分の子どもの方が教育密度は高い。能力、適正まで高いとは言えないが・・・。第三に、中小企業集団で誰が社長になるかのレースは、会社の中で大きな軋轢を産む。これは案外筆舌に尽くしがたい問題になる。よって、多くの場合は、後継者は会社の社長の子どもというのが妥当な線になる。

自分自身の時も、自分が選択して家業を継いだということがとても大切だった。やれと言われたからやったのでは、ちょっとした波乱があっただけで挫折してただろう。継ぐ側も、受ける側も、背水の陣、これしかないとい自分もまわりの誰もが「腑に落ちる」選択しかありえない。

事業というのは厳正なもの。いかなる妥協も、いかなるまやかしも、いかなる怠惰も、すべてが結果につながる。従って、後継者問題も、受ける側を含めて、すべては自分自身の責任。自分の責任だと思うところから、経営者の迫力は産まれる。

この想いは、なかなか子どもたちには伝わらない。また、想いをストレートに伝えすぎてしまっては、彼らの腹もできない。環境は作ることはできても、最後は彼ら自身で決めるしかないことだ。

とにかく、人の心がわからないようでは人を束ねてはいけません。棟梁というのは、大工だけではなしに、ありとあらゆる職人を束ねていかねばならないのだから、ありとあらゆる人の苦しみをよく知っていなくてはいけない。

西岡棟梁の言葉