HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「ムルデカ」: 昭和20年8月15日からが本当の戦いだった

スカルノの独立宣言は皇紀によってなされた。建国の父たちが日本に対する敬意をはらうためだった。

いろいろなことはあっても、今村中将をはじめいかに日本人がインドネシアの独立に力を貸したかが描かれている。戦後、いや、昭和20年8月15日以降に、連合国インドネシア人を80万人も殺している。これだけ広く展開した日本の戦死者が230万人あまりだと言われている。その三分の一あまりの人々がオランダ、イギリスなど、インドネシアを最奪還しようとする国々に殺されているのだ。

映画としては、まとまりにかける部分、あるいは元日本兵のインドネシア独立戦争への参加の動機を十分に説明していないなど、十分な完成度ではない。しかし、メイキングのインドネシアスタッフと日本人スタッフが一緒に仕事をしている様子を見て感激した。

ちなみに、主役の「青年道場」体調の島崎中尉のモデルは実在する。

ペタ設立の正式決定後、その編成の中心メンバーとなったのは、ジャカルタ近郊のタンゲランにあった「青年道場」(インドネシア特殊要員養成隊、隊長:柳川宗成中尉)のインドネシア人青年たちだった。この青年道場は日本の中野学校出身の情報士官らによって設立された機関で、インドネシア人青年にゲリラ戦や情報戦の技術を教育していた。ペタ設立の決定後、この青年たちをボゴールに設立された幹部養成学校(義勇軍錬成隊)に所属させて各種訓練を実施した。そして、この学校の卒業生が中心となって、彼らのそれぞれの故郷で、約500名規模のペタの大団を結成させた。この大団の下に、中団、小団、分団が組織された。

郷土防衛義勇軍 - Wikipedia

改めて陸軍の昭和20年8月15日時点での布陣を考えれば、まだまだ英米と戦えた。実際に、このインドネシアで起こったように、アジア各国の独立を臨む勢力と旧日本軍の兵隊が協力し合い、連合軍を打ち破った例もある。

さらには、日本は将来のインドネシア独立を見越して、インドネシア人の若者からなる祖国独立義勇軍(PETA)を組織し、日本軍式の軍事教練を施しました。このPETAが、独立戦争の中心戦力となり、後のインドネシア国軍の母体となったのです。今でもPETA出身の軍高官は「日本精神のおかげでオランダに立ち向かうことができた」と語っています。

インドネシア独立戦争の記憶 ~インドネシアはなぜ親日か~ | 朱雀式ニュース


日本人は、大東亜戦争時、インドネシアを350年もの間植民地化していたオランダ軍を駆逐し、現地に軍政を敷いた。若者達を組織して義勇軍を作り、戦後、再びインドネシアを植民地化するために戻ってきたイギリス・オランダ軍と共に戦った日本人が2000人以上いたのである。

インドネシア英雄墓地に行ってきた | 朱雀式ニュース

これからようやく届いた山西省で昭和20年8月15日から4年間中国人と共闘した城野宏先生の本を読む。

祖国復興に戦った男たち―終戦後四年間も中国で戦った日本人の記録

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蟻の兵隊」という「山西省残留」についてのドキュメンタリーがあるそうだ。ぜひ見てみたい。

蟻の兵隊 [DVD]

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