HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

旅順のソ連占領  (本文)

たまたま東鶏冠山の古戦場地を見学しているときに、大連の昔の写真を収めた本を買った。

旅順は今も軍港であることを知らなかった自分の不明を恥じる。それ以上に、1955年までソ連が旅順を占領していたことを知らなかったことを恥じる。

1945年8月14日、第二次世界大戦の中で日本は無条件降伏と宣じ、8月22日、ソ連ゴーベイジャルフ空軍パラシュート部隊が旅順の土城空港と大連周水子空港で降り、8月24日、ソ連近衛第六集団軍の戦車部隊が旅順と大連に進駐した。その時から、大連はようやく祖国の懐に戻った。1945年2月11日の「ヤルター協定」(原文ママ)と1945年8月14日の「中ソ友好同盟条約」及び付随の「大連に関する中ソ協定」、「旅順口に関する中ソ協定」に基づき、大連を自由市、大連港を自由港とし、旅大をソ連軍に管轄されるようにした。1950年2月14日、「中ソ友好同盟互助条約」と「中国長春鐡道、旅順口及び大連に関する協定」によって、ソ連軍旅大管轄をソ連軍旅大駐防に改定した。

1954年10月12日、中ソ両国政府は「ソ連軍隊の共同使用の中国旅順口海軍基地から撤退及び本基地の中華人民共和国完全支配に変換する連合広報」を調印した。1955年1月、朝鮮東海岸から撤退帰国の中華人民志願軍第三軍が旅大に進駐し、中央軍事委員会派遣の海軍、空軍、公安部隊と共同でソ連から警備を受け取り、更に当年の4月16日零時から独立で旅大の防衛を担ってきた。5月末までに、約30万のソ連軍が旅大地域から全部撤退帰国した。

旅順に対するソ連の未練を感じるのは私だけだろうか?

ちなみに、1945年の「中ソ友好同盟条約」は国民党政府を正式の政府とした条約。

条約締結時の交換公文により、ソ連中華民国中央政府たる国民政府に対してのみ軍需物資等の援助を行なし、満州が軍事行動地帯でなくなれば直ちに中華民国国民政府により行政権が完全に回復されるものと規定された。この条約によりソ連中国共産党軍に全面的な支援を与えることが制限され、中国共産党は正当な組織と見做さない根拠とされた。

中ソ友好同盟条約 - Wikipedia

そして、文中で「互助条約」と書かれた「中ソ友好同盟相互援助条約」で人民政府との条約となる。一歩間違えれば、旅順は台湾政府に帰属していたかもしれない。当時の国民党と中国共産党の内戦の様子を私は知らないが、条約上で言えば台湾でなく満州が国民党政府となっていてもおかしくなかった。

中ソ友好同盟相互援助条約は、1950年にソビエト連邦中華人民共和国が結んだ、軍事同盟と技術協力など、広範囲にわたる協力関係を構築する為の条約。

中ソ友好同盟相互援助条約 - Wikipedia

写真も撮ってきた。詳しくは帰国してから整理する。

東冠山の古戦場。




203高地。



ここに28センチ砲を備え付けたのではなくて、すでに無力化していることを知らずに、ロシア艦隊の砲撃のために多くの血を流して占領したと聞いた。本当だろうか?

(1904年)8月7日、黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊が大弧山に観測所を設置し、旅順港への砲撃を開始。9日9時40分に戦艦レトウィザンに命中弾を与えた。

(中略)

帰港した艦艇の殆どは上部構造を破壊しつくされ旅順港の設備では修理が出来ない状況だった[18]。結局もっとも損害が軽微だった戦艦セヴァストポリ のみが外洋航行可能にまで修理したのみで、旅順艦隊はその戦闘力をほぼ喪失した。

水師営。バスの中で唱歌を歌った。


乃木大将は中国語が非常に堪能だったと聞いた。その漢詩はいまでも中国で評価されているとか。

鉄道建設は全くストップしていた。中国内の権力の推移を感じた。